手を動かすための歩き

高橋悠治

こうして毎月書くためには、歩き回る時間が必要だ。足が進めば、頭もはたらく。
手が動くことも助けになるかもしれないが、歩くほどの頭の働きは作れないような気がする。今までは天気が悪かったから、歩いていなかった。今まで書いた文章を見ても、違った思いつきが浮かぶということもない。とすれば、しばらく前に考えた作曲のやり方、以前に書いたページを見返して思いつくことを書いてみることも、注釈以上のことではないかもしれない。

以前は、眼が覚める時、音楽の一節が浮かんでいることがあった。今考えると、それさえも、後から作られた記憶かもしれない。それが音の記憶なのか、楽譜の一節なのかもはっきりしない。記憶がある、と思ったから作られて浮かぶ作り物かもしれない。

そうではなくて、手の指を動かしてみると、それが音符のような感じがしてきた時、指の動きに楽譜の一節が張り付いているような気がするかもしれない。それらの音符を書き留めることには意味がないとしても、楽器の指の感覚が戻ってきた、と感じることはできる。

こうして音楽をする身体を作って待っていれば、響の思いつきが降りてくることもあるだろう。と書いてみて、書いたことを自分で信じる意味もないかもしれないが、楽譜から音とそれを作る身体という順序を逆にして、音を作る姿勢の準備から入るのは自然に見えるし、余裕かもしれない。

論理を追っても、他人の心はわからないかもしれないが、身振りを身体に写すのが伝承と言われ、その意味はさまざまに言われても、意味ではなく、伝承する身体の系列があることで、変化しながら続く、多くの身体の空間と動きが見える。

ここに書いていると、つい論じてしまい、やってないことを書いてしまう。毎月書くことがないと思いつつ、書いていると、後から読み返す気になれないものを書いているのではないかと思いながら、何かを書く、それがノートというものなのか。書いている文字の意味よりは、書いているという行為、その時間のなかに浮かぶ言葉や音の中に隠れているものを、どうやって引き出すか、これが課題と言えるだろうか。