別腸日記(15)遼菜府の思い出 前編

新井卓

振りかえれば、通算三十五年以上も同じ街に暮らしている。こんなはずではなかったのだけれど──三十になるまでは、一刻も早くこんな街を出てゆきたい、遠くへ、日本人などが一人もいない、どこかよその国の片隅で暮らしたい、とジリジリと思いつめていた。

記憶の中の川崎、こと溝ノ口は暗くヤニ臭く、町工場から垂れ流される汚水と光化学スモッグに霞む忌まわしい町だった。少なくとも小学生のわたしにとっては。戦時中、沿岸の軍需工場に工員たちを運んだり、秩父から石灰石を輸送した南部線は別名ギャンブル電車と呼ばれており、朝下りの電車にゆられていくと、赤鉛筆を耳に挟んで競馬新聞と首っ引きの労働者たちが、高校生の群れに混じってちらほら見えたものだ。

それが、1990年を境に駅前に歩行者デッキが出現し、変な名前の駅ビルが立ちマルイが開店し、ピンク映画の劇場跡地は高級マンションへと置き換わっていった。

西口商店街はドブ板を占拠して作られた闇市の名残で、立ち並ぶ飲み屋には昼日中から失業者がたむろしていたが、十数年間まえ未明の不審火で半分が燃えてしまった。夜が明けてからシノゴのカメラ(ネガのサイズが4×5インチあるカメラ)を担いで駆けつけると、まだ湯気の上がる黒焦げのバラックの前で、クリーニング屋のおかみさんがうずくまって泣いていた。クリーニング屋は幸いまた商いを始めたが、ほかの多くの店は、見た目だけ昭和風を模したチェーンのもつ焼き屋などに変わった。

いつの間にか「長崎屋」の後釜に座った「ドンキホーテ」で安売りのスコッチを買って表通りに出る。するといつも、不思議な感覚に襲われる。宙に浮いているような、狐につままれたような頼りない感じ、といえばいいだろうか。あるいは安部公房の『燃えつきた地図』の感じ。あんなに嫌いだった街はもう、ない。だから旅立つ必要もなくなってしまった。

「遼菜府」のことは、大学時代アルバイトで通った喫茶店「みずさわ珈琲店」のマスターから聞かされていた。きれいな店ではないけど麺類はまあまあうまい、とかで、それほど興味も抱かなかったのが、都内の広告写真の会社に勤めはじめたころ、初めて店の前で足をとめた夜のことを、よく覚えている。

果てしない葬送のようにひしめく黒い服の勤め人たち。うっすらとした敵意を孕んだ沈黙に身を固くしながら、自分自身もその全体的な感情の一部になっているのではないか、いや、そんなはずはない、そう思いたい、と、悶々と地下鉄に揺られていく日々。終電やタクシーで帰る日がつづき、いい加減神経が軋みはじめたある夜──もう深夜〇時かそれくらいだったと思う──煌々と蛍光灯を照らした「遼菜府」は、スーツ姿のサラリーマンたちで満席で、席は空いていないようだった。中を覗くわたしに気づいた女将が、大丈夫まだ座れるよ! ちょっと待って、ビール、サービス、150円。と言い、店の脇の暗がりからプラスチックの椅子と簡易テーブルを出して、目の前の歩道に据えた。街灯に照らされ夜道に浮かぶわたしの食卓は、なかなかインパクトのある光景だったが、ひどく空腹だったので、勇気を出して腰掛けた。

ほどなく女将さんが運んできたビア・ジョッキは、分厚い霜に覆われた氷塊と化していた。それはたぶん発泡酒だったのだが、ジョッキから遊離した氷片が金色の液体もろともに口中に流れ込み、思わずため息が出るくらい、うまかった。干絲(ガンスー、大豆たんぱくを板状に固めたもので麺のように刻んで使う)とラム肉とピーマンの炒め、水餃子、それに冷菜のじゃがいもの千切りなど──八月のねっとりと淀んだ夜空の下、アスファルトから立ちのぼってくる湿った夜気が、ひんやりして心地よかった。一人路上でほろ酔い加減を味わいながら、あたりを見回すわたしの心を見透かしてか、女将さんが言う。大丈夫、もう遅いだからだれも怒らないよ。ケーサツも寝てるよ。

そう、いったい何を気にすることがあるのか? 路上で。溝ノ口で、東アジアの片隅で。

(つづく)