ひとつの生活や、ひとつの仕事が、十年という年数で円弧を描き──年数とは所詮、人がヒトの限られた生の時間から切りだした仮構にすぎないのだとしても──ふたたびよく似た風景に回帰してくる、という感覚が否定しがたく、ある。
いま、横浜の関外地区の果てるところ、高砂町というところに仮の事務所を構えている。黄金町、日ノ出町といった瑞祥地名がならぶこのあたりは、言うまでもなく戦後有数の赤線地帯だったのが、2005年の違法飲食店(「ちょんの間」と呼ばれた細長い建物で、表向きは飲食店の一階部分と、買売春を行う二階部分に分かれている)一斉摘発を経て、今ではすっかり様変わりした。
今からちょうど十年前、この町で、横浜市と京急電鉄、地元の商工会が共同で立ち上げた「黄金町バザール」という芸術祭に参加した。広告写真の会社で心身を壊してから仕事を辞め、ようやく細々と作家活動を始めた時期だった。その頃は今よりも輪をかけて美術の世界(つまり「世間」ということだが)に不案内で、金もなく、突然舞い込んだ話に飛びついた格好になった。
話が決まった初夏、黄金町を訪れた。京急線で三浦あたりから帰るとき、車窓から垣間見る輝く川縁の風景──夕闇にひときわ眩しく、怪しい光を放っていた──だけが記憶にあって、真昼その街区を歩くのは初めてだった。芸術祭の事務局から名札を渡され、これを首から提げていれば面倒なことにならないから、と言われた。ライカを右手に握りしめ、従順に名札をひらひらとさせながら大岡川のほとりを歩く姿は、いま思えば弛緩しきった情けない有様で、ひっぱたいてやりたい気持ちになるけれど、過去の自分であることは拒絶できない事実と言うほかない。
やがて、町のいろいろな相貌が少しずつ、焦点のぼけたわたしの頭の中にも入ってくるようになった。当時、警察の摘発後とはいえまだ一握りの街娼や客引きが辻々に立ち、このあたりの元締めの暴力団も健在だった。あるとき終電を逃してしまい、映画館のレイトショーからバー「アポロ」に逃げ込んだ。夜明けごろふらふらと川辺を歩いていると、暴力団事務所の前で、肌脱ぎになった刺青の男が、たわしで何かを洗っていた。よくみれば分厚いまな板と出刃包丁で、いったい何を切ったものか、と一気に酔いが醒めたのを覚えている。
近隣の飲食店や商店は、どうひいき目に見ても繁盛しているようには見えず、性風俗に集まる客を失ったあおりを、もろに受けているのが見て取れた。芸術祭を支える地元のグループは「環境浄化推進協議会」という看板で数年来活動してきた、と聞かされた。このあたりから微かに感じ始めた違和感を──それが「浄化」の二文字から来ることは明白だったが──「作品」に昇華することはおろか、もっと直裁な行動や思考にうつすことのできなかった自分の足りなさが、今も時折、すきま風のように、夜の町の景色に吹いてくるのを感じる。(つづく)