別腸日記(18)橋の下の水(中編)

新井卓

京浜急行線を黄金町で降り、大岡川を渡って左へ──風俗店「ピンクライオン」のY字路の右手に、「黄金劇場」があった。東日本大震災から一、二年経ったころ、突然警察が踏み込み経営者と客の何人かを検挙して去って行った。「公然わいせつ」の咎ということだった。長年の経営難、そして建屋の老朽化を、常連客の大工などが廃材でつぎはぎして凌いできたというストリップ劇場は、こうして、およそ四十年の歴史にあっさりと幕を下ろしたのである。

二〇〇八年、黄金町の芸術祭に参加が決まってから、はじめて「黄金劇場」を訪れた。日本のストリップに馴染みがなかったから、友だちの売れないミュージシャンを誘って、つきあってもらうことにした。昼下がり、日ノ出町駅で待ち合わせて、明るいうちから開いている居酒屋に座り、ほろ酔い加減になってから川縁を歩き始めた。
薄暗い入り口をくぐり、モギリの初老の男性に入場券を求める。「お兄さんたち初めてだろ? ビールはサービス。少し後ろが初心者向きだよ、さ、どうぞ入って」と、愛想よく劇場に通された。中は思いの外広く、客の多くは仕事を早く上がった(か、あるいは勤怠中の)勤め人という風情で、女性客もちらほらと見受けられた。早い時間の回だったせいか客は五割くらいといったところだったが、佇まいから察するに、こなれた客ばかりのようだった。

ほどなくして、それらしいムード歌謡が流れ、照明が落ちショーが始まった。年増から年若いダンサーへ、番組はそのように進行するらしかった。一番手の女は表情やポーズを変えながら踊り、客席に繰り出しては常連たちに腕を回して、なにやら談笑するのだった。ここまで来たらどんな顔をしたものか、と少し焦ったがそこはベテランの余裕で、新参者のわたしたちには大仰な一瞥だけを送って、舞台へ戻っていった。

毎回ダンスが終わると照明が明るくなり、有料の「ポラロイド・ショー」が行われる決まりになっていた。希望する観客が舞台に上がり、インスタント・カメラで裸の踊り子たちを撮影する。写真はあとで踊り子がサインを入れて、帰り際に客に手渡す、という段取りだ。隣の客が、これが、給料の少ない踊り子たちの大切な現金収入だという。それを知ってのことなのだろう、初老の男たちが代わる代わる、舞台に上がっては、踊り子と軽妙な会話を進めながら、シャッターを切っていく。観る者が、ふと、観られる者になっていた。

淡々とした場の空気には、淫靡さや性的興奮よりもむしろ、触れれば壊れてしまいそうな、弱々しい、いたわりに似た何かが、確かに混じっていた。ダンスのクライマックスで投げられる紙テープや種々のかけ声、それらは時間の蓄積によって形づくられた、固有の様式といってよかった。
しんがりの年若い踊り子は、もうすぐ臨月で来月からは舞台に上がりません、と客席に向かって挨拶した。唐突に「こんにちは赤ちゃん」が流れ、彼女は、露わになった大きなお腹を揺らし、綿を詰めた人形を抱いて踊った。

夕方の部は、こうして幕引きとなった。消化しきれない何かを腹のあたりに感じながら、しばらくの間、わたしたちは無口だった。そのまま帰る気がしなかったから、日ノ出町に戻って「第一亭」に腰を落ち着けた。この中華店の隠れた名品は「パタン」という油そばで、無闇にうまいが、一皿平らげてしまうと翌日まで、ニンニクの残り香と胃のあたりから来る胸苦しさを我慢しなくてはならない。弾力のある麺をカラメル色の紹興酒で流し込みながら、黄金劇場の人々を撮って芸術祭で発表しよう、わたしはそう心に決めていた。