最近、絵描きの藤井健司君と飲んでいた夜のことだった。その日かれは昼から同窓会でしこたま飲んできたらしく、もう目が完全に据わっている。そろそろ勘定して終電に飛び乗ろうか、という時刻、不意に「あんたに言いたいことがある」と切り出すので仕方なくもう一杯、アイラ・ウイスキーを注文した。何のことかと思えば、「そう言ってもあんた、けっこう酔っ払うで」と不興にも咎めるようなことを言い出すのは、どうやら、先月ここで「いくらでも飲める」というようなことを書いたのが気にくわないらしい。あれは18かそこらだった頃の話であり、少々飲み疲れた不惑間近の今、そんな皮肉を言われては困る。
とはいえ藤井君の言うとおり、いままで日本酒ばかり飲んできたのがここ数年、なんだか体に堪えるようになってきてしまった。そこで近ごろは蒸留酒を、とくに茶色い酒ばかり飲んでいる。ちなみに藤井君はウィスキー狂いで、最近は会ってもモルトの話しかしない。バーでは吃驚するような値段の稀少シングル・モルトを「お値打ち」とか言ってまっしぐらに注文し、ニタニタしながらグラスを傾ける雄姿には開いた口が塞がらないが、その傍らで色々と教えてもらうのは、まあ結構楽しい。
たいへん面倒くさそうなウィスキーの世界に足を踏み入れたのは、二年前の夏、展覧会に呼ばれてスコットランドに旅した時のことだった。エディンバラに滞在中「ザ・スコッチ・ウイスキー・エクスペリエンス」という博物館で蒸留方法についてレクチャーを受け、まわりの人たちからストレートの嗜みや加水の方法などを教わった(パブで隣り合ったモルト・オタクのアメリカ人紳士には、氷でもいれてみろ、ぶっ殺してやるぞ、と恫喝された)。天気のいい昼下がり、見晴らしの良いカルデラ(火山性の丘)に登って友だちがくれたミニボトルを試飲したりするうち、気づけばすっかりスコッチの虜になってしまっていた。
日本酒やワインで酔いつぶれると、心に去来するのは片付いていない数々の不義理や、音信不通の昔の女の人についてなど──要するにネクラな悔恨ばかりである。一方、口中で刻々と移ろうウィスキーの芳香に刺激されてフラッシュバックする記憶の断片は、鮮明で透きとおっており、より映像的といえるのかもしれない。
エディンバラでひととおりの仕事を終えたあと、友人の写真家ジェレミー・サットン・ヒバートとの対談の催しのため、グラスゴーを訪れた。かつての一大工業都市には大雑把な雰囲気が漂っており、アーティストたちの威勢もよく、川崎育ちのわたしには、京都的スノッブさを感じるエディンバラよりもずっと水があった。
当地では、打ち合わせなどで顔が合えばいつでも、理由をつけてみんなでパブに直行する。ビールを1パイント、ゆっくりやって、グラスの空いただれかがスコッチを頼みにいく。すると、いよいよきたか、とちょっと場の空気がピリッと引き締まるのだが、特に形而上学的になるわけではなく、お下品なジョークにいっそうのキレが加わる、というくらいの話である。
そうこうするうちにジェレミーとの対談も無事に終わり、せっかくここまで着たのだから、と、一人、西へ車を走らせた。はるか昔、何者かが立て、8000年をこえていまだ立ちつづけるメガリス(巨石記念物)が多数現存するというマル島を、どうしても訪れてみたかったからだ。
未明に出発してアーガイル・アンド・ビュート行政区の町、オーバンへ。そこからマル島東端の港町、クレイグヌアまでフェリーで1時間弱。さらに北の街トバモリーまで、車で30分ほどの道のりを、寄り道しながら2時間かけて走る。島内では、車ですれ違うとお互い手を上げて挨拶するしきたりのようだ。中には窓から親指を突き出して(サムズ・アップして)くるドライバーもいて、余所者の心を明るくしてくれる。
海岸の際を伸びる道は濃霧でしっとりと濡れており、角のとれた礫質の浜辺でウミネコが静かに羽をやすめていた。時折視界にひらける圧倒的な断崖や荒涼とした丘陵地帯、毛長牛の群が、永遠に周回しつづける太古からの時間に意識をつれ去る。窓を開けて走り抜ければ、島全体に名状しがたい蜂蜜のような香気が満ちていた──。