小さいころから、極度の緊張症だった。月に一度、あるいはもっと少なかったかもしれないが、両親や、友だちの家族に連れられて外食に出かけるのが、嫌で仕方がなかった。衆目監視のもとでものを食べるなど、苦痛以外のなにものでもなかったし、なんとなく「ちゃんとしなければ」いけない重圧に気分が悪くなり、胃に詰め込んだものを戻したりすることもあった。親たちのやり方がまずかったのかどうか、当時のほかの子どもたちは、あるいは、いま子ども時代にある人々はどう思っているのか、知る由もないが、緊張症の名残はまだ、私の身体のなかに消えずにある。
さて、そんな思い出とはなはだ矛盾しているが、一人で飲みに行くことは、どういうわけか嫌いではない。むしろ人見知りだからこそそこに冒険があるのかもしれないが、この際それはどうでもよい話である。
見知らぬ街で、土地の常連たちの声が漏れだす小さな酒場に入るのは、勇気が要る。西部劇で、首に賞金がかかった主人公が、賞金稼ぎの溜まり場のスプリング・ドアを蹴とばして、堂々と入場するくらいの勢いがないと駄目。ところが、せっかくの勢いで入った店で、本当にうまい酒や気の利いた料理にありつくことは稀といってよい。だいたいにおいて、止まり木に落ち着いた途端、常連たちに根掘り葉掘り素性を聞かれて完全に浮き足立ち、業務用スーパーで調達したとおぼしき貧相なつまみと悪い酒で、具合が悪くなって帰路につくことになる。もうあいつは来るまい、などと背後でいい酒の肴になっているのでは、などと考え始めるともうどん底である。
そうした苦い思い出にまみれてなお、近くに寄るたび、二度、三度と再訪する店──そんな特別な店には必ず「手練れのおじさん」とよぶべき常連がいた。「手練れのおじさん」の存在に救われ、緊張症どころか余所者の気分も忘れて、気持ちよく杯を重た店は、遠くから思い出すだけで、心が少し温かくなるものだ。
「手練れのおじさん」は、どの地方、国にあっても何か通底した良さを持ちあわせている。一見して身なりがよく(別に背広を着ていなくても、どこか垢抜けてみえる)所帯じみておらず、大抵はかなり早い時間から、一人でいかにも楽しそうに飲んでいるものだ。彼らがいきなり話しかけてくることは、まずない。カウンター越しに店のあるじとやりとりすると見せながら、そのあるじをスカッシュの壁のごとく巧みに反射させ、少しずつこちらに玉をよこしてくるのが普通である。その玉はべつに拾わなくてもよく、拾わなければ特にそれ以上何も起こらないが、ひとたび拾って打ち返せば、今度は「おじさん」との直接のやりとりに発展する。
「手練れのおじさん」はそれぞれ技に長けており、マシンガンのように超高速の駄洒落を連射する人もあれば、噺家はだしの話し上手もあるが、共通しているのは、彼らの語りが炭酸水のように爽やかで、シュワシュワと揮発して後に残らないことである。お互いに素性を聞き合うこともないので、一体彼らがどんな人生を過ごし、過ごしてきたのか、会話の端々から妄想を膨らませるよりほかないが、互いの微笑のなかに漂う謎と、それゆえ沸いてくる好奇心を抑えながら飲む酒は、ピリッとした風味が効いて何とも心地よい。
「手練れのおじさん」の良さとはなにか──思うにそれは、彼らが、内輪話やテレビの有名人、他人の話を持ち出したり、相手のあれこれを聞くのではなく「自分の語り」に徹しておりかつまた、それを俯瞰しつつ、外連味のない笑いや哀しみに昇華させる力ではないか。そうした洗練された「自分の語り」とは、手練れでないオッサン共の、声高く耳障りで、相手のことなどお構いなしのみっともない「自分語り」の対極にあるということは、一々付け加えるまでもないだろう。
いつかわたしも「手練れのおじさん」になりたい、なれるのだろうか──「手練れのおじさん」に出会ってつい飲み過ぎて、しかし身も心もすっきりと一人夜道を歩くとき、湧き上がる憧憬の念には少し切ない味が混じっている。
【付録】「手練れのおじさん」遭遇地点/関東編
渋谷のんべい横町「会津」
自由が丘「ほさかや」
鶯谷「鍵や」
神保町「兵六」
湯島天神「EST!」
新橋「橘鮨」
横浜日ノ出町の「武蔵屋」(惜しまれつつ閉店)
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