『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』がまもなく公開されます

福島亮

「水牛通信電子化計画」というページをのぞいたことはありますか? 毎月更新される「水牛のように」の目次の下に「水牛通信電子化計画 1982年10月公開」と書かれたページあり(2019年11月現在)、そこをクリックすると「水牛通信100号の全目次」と1980年から1987年までの記事が表になっていて、青字の部分を押すと、『水牛通信』に掲載されていた記事を読むことができます。試しに、アップロードされているうち最も初期の「1980年2月号」をのぞいてみましょう。ひとつひとつ手で入力された11の記事の目次が最初にあって、ついで小泉英政の詩「ごえもん風呂」がこんな風に続きます。

 のら仕事を終え
 夜道を『てって てって』と帰ってくる。
 それから
 「つきよのあかりで せんたくをして
 まいばん かやをひとたば まるめ
 ふろに へいってよ
 それから
 つかれたときは
 さけを いっしょう かってくるわ
 それを こっぷさ にはいずつ のむ。
 そで
 きょうは くたびれたから
 もうすこし いいかなってんで
 もういっぱい のんじゃうね」。
 
僕の大好きな詩です。詩はこんな風に終わります。「赤々と燃えるおきを/ぼんやりと ながめながら/湯がわくのをまつ時間が 好きだ。/おきのなかに/よねがいて/仲間がいて/ひざがあたたかい/闘いが 見える。」

僕が「水牛」のホームページを最初に開いたのは中学生の頃でした。15年ほど前のことです。群馬県伊香保温泉の近くに暮らし、図書館や学校の音楽室に置かれたCDを頼りに現代音楽を聴き、のめり込んでいた当時の僕は、どこかで「水牛楽団」という楽団の名前を知ったのだと思います。実家のリビングに置かれた卓上パソコン(ノートパソコンではなく、起動やページを開くのに時間のかかるあれです)で「水牛楽団」と検索し、最初に出てきたのがこのホームページでした。その時から、時々のぞいてきた「水牛通信電子化計画」のページ。そこには手入力された文字がひしめいています。しかし、イラストや楽譜、写真は載っていません。

じつはこの「ごえもん風呂」という詩が『水牛通信』1980年2月号に掲載されたとき、二段に組まれた詩の言葉の周りにはインゲンやアスパラガス、カブなどのイラストが添えられていました。「のら仕事」が作り出す野菜、その土のにおいやみずみずしさをイラストは力強い線で伝えています。すべすべした紙の質感、インクのにおい、手で描かれたイラストの線、そして言葉の織りなす力が、「闘いが 見える」という言葉で締めくくられたページの次に置かれた「三里塚ワンパック」の闘いの言葉へと読者を引っ張っていきます。この力の充溢と動きは何なのでしょうか。晴れ晴れとした冬の青空の下に出て深呼吸した時のような気持ちのよさと、遠くの方の風景を眺めているような、たとえようもない懐かしさ——それとも遠さ? いずれにしろ、1980年には僕はまだ生まれていないので、本当は懐かしいと思うなんて変なのに、繋がっているような離れているような、そんな奇妙な時間錯誤、あるいは感覚の縺れがあります——は何なのでしょうか。

去年の7月、タブロイド新聞『水牛 アジア文化隔月報』(1978-1979年)と冊子『水牛通信』(1980-1987年)を紙媒体で読みました。その時、そんな遠いような近いようなねじれた感覚を僕は抱きました。1980年頃といえば、それほど昔のことではないはず。でも、もう40年ほどの歳月が経っていて、僕にとってはやはり「歴史」の一部、近いのにどうしても手が届かない、夢の遠近法のような時の隔たりがそこにはあります。まだ物語化されていない歴史。あるいは、遠くの方でまだ生きられている時間。『水牛 アジア文化隔月報』や『水牛通信』が手から手へと受け渡されていた時間とは、物語化、固定化、風化をまだどうにかすり抜けることのできる時間なのかもしれません。この錯綜した奇妙な時間感覚は、もしかしたら読んだのが紙媒体であったこと、打ち出された文字のインクのにおい、印刷された写真やイラストの質感、それらを支える紙が時間に耐え、時を超えて僕の手元にやって来てくれたこと、そういった諸々の物質性に起因するのではないか——いつしか、僕はそんな風に思うようになりました。そして、紙やインクがもたらすこの時間感覚が、僕は好きです。

会ったことのない誰かにも——手紙を入れた瓶を海に投げ込むように——この不思議な感覚を届けてみたい。そういう思いから、『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』をPDFにし、「水牛」ホームページで公開していただくことにしました。PDFにしてしまうと、たしかに紙の手触りやインクのにおい、活版印刷ならば紙の表面に文字が刻印される凸凹、それから紙そのもののもろさは消えてしまいます。でも、『水牛 アジア文化隔月報』も『水牛通信』も、今では東京を中心とする限られたアーカイブの中に収蔵されているので、気軽にお茶を飲みながら誰かと読んだり、好きなページを自由に切り抜いてノートに貼り付けたりすることはできませんし、何よりも、遠くの誰かに文章だけでなくイラストや写真を届けるにはPDFにしてしまうのが手っ取り早いと思ったのです。このPDFは、予定では今年の12月1日に公開されるはずです。僕も、時間の錯誤と感覚の縺れを抱きながら、時にはPDF化された記事について思ったことや考えたことを書いていこうと思っています。もっとも、まだすべての資料がPDF化できたわけではありません。1982年第4巻9号、同10号、同11号、1983年第5巻4号、1984年第6巻3号、同7号、同8号、同9号、同11号、同12号は立教大学の共生社会研究センターや法政大学大原社会問題研究所にあることはわかったのですが、それでも見つからないものや、様々な理由から電子化が難しいものもあります。これらの欠落については、持っている方がいらしたら、あるいは偶然机の引き出しの中から出てきたら、声をかけてください。そしてPDF化させてくださったら嬉しいです。

『水牛 アジア文化隔月報』の巻頭に置かれた「水牛、でてこい!」という文章は次のようにむすばれて——ひらかれて——います。「『水牛』は、アジア民衆の解放運動の空間のなかへ、私たちのしごとをときはなすこころみだ。しごとがささやかなものにすぎないことを自覚し、しかもそれが他の場所での他の人たちのしごととひびきあっていることを感じる。魚が水を必要とするように、実践をたえずのりこえるための、ひろい空間が必要だ。制度化しているものを、自分の手にとりかえし、体系化したものをときほぐして方法に変える。そのために新聞は、引用し、編集し、モンタージュをつくりあげる。」時間と空間を超えて、「水牛」の名のもとに集められた幾つもの言葉やイメージ、質感、時に欠落がこれから公開されます。水牛、何度でもでてこい。そんな合言葉をつぶやきながら、遠くのあなたと一緒に、近いような、遠いような、気持ちいいような、苦しいような、こことあそこ、そちらとこちらとがひびきあい、力の縺れあう景色を見てみたい。もうすっかり寒くなり木の葉も落ちてしまったパリの片隅で、そんな風に思いながらこの文章を書いています。