バオバブの種

福島亮

 セネガルに行っていた友人が、はいこれ、といってそれを手渡してくれた。バオバブの種である。友人がセネガルに行くと知って、私がねだったのだ。それは思っていたよりもずっと小さく、豆まき用の煎り大豆を焦茶色にしたような見た目だった。こんな粒が巨木の種だなんて、なんだか嘘みたいだ。友人によると、セネガルではバオバブの実をジュースにするという。この小さく、硬く、黒っぽい種子を、どんな果肉が包んでいるのかと思い、きっと比較的乾燥した地域の植物だろうから、サボテンの実がそうであるように、水分をいっぱい含んだ果実に違いないと、まだ見ぬバオバブの実を想像した。そういえば、ウチワサボテンの実も赤や黄色のみずみずしい果肉の中に黒胡椒のような硬い粒が無数に入っていた。きっと、バオバブもそうに違いない。

 しばらくしてから、その友人とパリにあるセネガル物品店に行った。4畳あるかないかの小さな店内に入ると、一方の壁際に薬草や乾燥した木の根が所狭しと積まれており、他方の壁際には石鹸やスパイスがやはりみっちりと並んでいた。友人は、店員と何やらウォロフ語まじりのフランス語で会話し、見慣れぬ黒い粉を購入した。あとでそれが「カフェ・トゥーバ」という香辛料入りのコーヒーであることを知った。私はといえば、探していたのはただ一つ、バオバブの実である。名前のわからない乾燥植物が積まれたあたりをいくら探しても、想像しているみずみずしい果実は見つからない。そこで私たちの方を訝しそうに見ていた(おそらくセネガル人の)老人にバオバブの実はあるかと尋ねると、これだ、という。老人の指先にあったのは、ポリ袋に詰められた何やら白く粉っぽい物体、見ようによってはちびたチョークのように見える何かだった。これが、と思いつつ、とりあえず一袋買った。3ユーロくらいだった。

 帰宅し、袋を開けてみると、それはやはりちびたチョークにしか見えない何かであるのだが、友人によると、これこそがバオバブの実なのだという。カカオの実のような殻の中に、この粉っぽい果肉を纏った種がいっぱい詰まっているのだそうだ。なるほど、よく見ると、例の焦茶色の種子の周りに落雁のようなものがこびりついているのがわかる。口に入れると甘酸っぱく、おそらく同じ棚に詰め込まれていた石鹸の匂いが移ったのだろうが、香水のような不思議な匂いがした。この粉状のものを水に溶かしてドロドロにしたものがバオバブジュースなのだという。袋の中には50粒ほどの種子が、果肉の繊維と思われる筋のようなものと一緒に入っていた。こうして今、私の手もとでバオバブの種子は蒔かれるのを待っている。

 バオバブの種子は硬い殻を持っており、動物に食されその体内をくぐり抜けても、びくともしないどころか、むしろ消化液に浸される刺激を経験しないとうまく発芽しないのだという。実際、バオバブの種の蒔き方を調べてみると、熱湯に24時間浸せだの、濃硫酸に数時間浸せだのと、おおよそ植物に似合わぬ暴力的な処置を施すよう説かれている。海外のバオバブ愛好家が種を蒔く動画もいくつか見てみたが、魔法瓶に種を入れ、そこに70度ほどの湯を入れて、48時間放置してから蒔いていた。なお、バオバブの発芽に必要な温度は最低20度とのことで、最低気温が20度を下回る日本の4月は播種にはまだ早い。5月の中頃に、(さすがに濃硫酸を用意するのは怖いので)70度の湯を使って発芽処理を行なってから、種を蒔こうと思っている。

 小学生の頃、私が愛読していたのは卓上国語辞典、および『新世紀ビジュアル大辞典』だった。バオバブの木の存在を知ったのは、この二つの辞典のどちらか、おそらく前者の巻末に載っていた熱帯植物のカラー写真によってではなかったかと思う。この卓上辞典は、私の家にあった数少ない本のひとつであり(冠婚葬祭事典などもあったのだが、子どもにとってそれは興味の対象ではなかった)、また後者は、ある日祖母がなんらかの返礼品としてもらってきたものである。この『新世紀ビジュアル大辞典』には、作家や芸術家の顔写真が多く掲載されており、何度読んでも飽きなかった。小学生の私はいつまでもいつまでも、床に寝転がって見知らぬ人々の顔を眺めては彼らがどんな創作活動を行なっているのか想像して楽しんでいた。額の広い、宇宙人のような色白の男性が武満徹という作曲家であることを知ったのもこの辞典を通してだったし、チューリップの花の写真がメイプルソープという写真家のものだと知ったのも同じく大辞典を通してだった。その時知った幾人かの作品は、私の10代20代を支えてくれたのだが、バオバブだけは直接的な縁を持てずにいた。

 たしか辞書の説明によると、バオバブは大変な巨木で、現地ではそのウロに死者を埋葬すると書いてあったような気がする。この木の存在を知ったのと同じ頃、ひょんなことから即神仏というものの存在を知った私は、バオバブの木の穴に入れられた人間がゆっくりと木乃伊になっていく様子を勝手に想像し、さらにそのウロがどういうわけか閉じてしまって、樹木の中心部に人間の亡骸が孕まれる様子を思い浮かべた。この空想は今でも時折思い出され、バオバブの巨木の写真を見ると、その幹の中に胎児のように膝を抱えた人間がいる気がする。

 この生きた棺は、とはいえ発芽してから何百年も経ってようやく完成するのであって、少なくとも手もとの種子が一人前のバオバブになるのを見届けることは、私には不可能である。私の人生の尺度を超えるものが、この煎り大豆のような種子の殻の中に詰まっている。そう思うと、種を蒔くことが良いことなのかどうか怪しくなってくる。私がいなくなった後、何百年間も誰かが水を与え続けねばならないのだが、おそらくそんなことはできっこない。仮に地面に植えたとしても、日本では冬の寒さでこの木は死んでしまうので、寒くなる前に守ってやらねばならない。それを何百年間も続けなくてはならないのである。
 遠くからやってきた小さく、硬く、黒っぽい種子を眺めながら、百年、二百年とこの木を世話する人々の姿を思い浮かべている。

   ***

最後に、宣伝をひとつ。6月9日から11日にかけて、調布市せんがわ劇場で「死者たちの夏2023」と題した以下のようなイベントを行う予定です。

「死者たちの夏2023」
100年前の首都圏で、日本人はなぜ、ふつうに人間に対するように朝鮮人に向き合うことができなかったのか。
人を「殺害可能」な存在とみなすために、どのような偏見や妄想が醸成されたのか。
私たちは7年前の7月に相模原市の障害者施設で殺傷事件が起きたときにも、同じ問いを自分にぶつけた。
世界には残虐な行為があふれている。いまも、さまざまな時に、さまざまな場所で、人間が人間を殺している。なぜ?
この歴史の問いかけに向き合うために生まれた、文学があり、音楽がある。

公演情報
■ 音楽会 Music Concert
「イディッシュソング(東欧ユダヤ人の民衆歌曲)から朝鮮歌謡、南米の抵抗歌へ」
6月9日(金)19:00 START
出演:大熊ワタル(クラリネット ほか)、
こぐれみわぞう(チンドン太鼓、箏、歌)、
近藤達郎(ピアノ、キーボード ほか)
解題トーク:東 琢磨、西 成彦 ほか

■ 朗読会 Reading
「ヨーロッパから日本へ」
6月10日(土)14:00 START
「南北アメリカから日本へ」
6月11日(日)14:00 START
出演:新井 純、門岡 瞳、杉浦久幸、高木愛香、高橋和久、瀧川真澄、平川和宏(50音順)
演出:堀内 仁 音楽:近藤達郎
解題トーク:久野 量一、大辻都、西 成彦 ほか

場所:調布市せんがわ劇場 京王線仙川駅から徒歩4分
料金(各日):一般3,200円/学生1,800円
リピーター料金:各回500円割引
ホームページ:https://2023grg.blogspot.com
お問い合わせ: 2023grg@gmail.com (「死者たちの夏2023」実行委員会)

音響:青木タクヘイ(ステージオフィス)
照明・舞台監督:伊倉広徳
衣装:ひろたにはるこ

■ 実行委員長:西 成彦(ポーランド文学、比較文学)
■ 実行委員(50音順)
石田 智恵(南米市民運動の人類学)
大辻 都(フランス語圏カリブの女性文学)
久野 量一(ラテンアメリカ文学)
栗山 雄佑(沖縄文学)
瀧川 真澄(俳優・プロデューサー)
近藤 宏(パナマ・コロンビア先住民の人類学)
寺尾 智史(社会言語学、とくにスペイン・ポルトガル語系少数言語)
中川 成美(日本近代文学、比較文学)
中村 隆之(フランス語圏カリブの文学と思想)
野村 真理(東欧史、社会思想史)
原 佑介(朝鮮半島出身者の戦後文学)
東 琢磨(音楽批評・文化批評)
福島 亮(フランス語圏カリブの文学、文化批評)
堀内 仁(演出家)
■ 補佐
田中壮泰(ポーランド・イディッシュ文学、比較文学)
後山剛毅(原爆文学)
■ アドバイザー
細見和之(詩人・社会思想史)