水牛的読書日記 2023年4月 台湾旅行編

アサノタカオ

4月某日 台湾旅行1日目。火曜日、晴れ。出版関係の仕事を片付けた翌朝、最寄りのJRの駅から成田エクスプレスに乗車し、成田国際空港へ。これから午後の便で台湾へ飛ぶ。ひさしぶりの海外旅行だ。

台湾では先月末から新型コロナウイルス対策としての入国後7日間の自主防疫義務が撤廃され、国境の管理はほぼ平常状態にもどった。このタイミングで、大学院時代からの友人で台湾文学研究者の朱恵足さんから、「大学がちょうど春休みで台東に里帰りをしているから、遊びに来ない?」と声をかけられ、誘いに乗ったのだ。とはいえ世の中にはなおコロナの影響はあり、けっしてにぎわっているとは言えない空港で搭乗と出国の手続きを済ませ、免税店でお土産を手早く買い込む。3時間半ほどのフライト。機内で読みかけの本のページをめくり、うたたねをしていたら、いつのまにか台北の桃園国際空港に着陸。窓の外に広がる景色を照らす強烈な太陽の光に目を見張った。5年ぶりの台湾だ。

桃園でMRTに乗り換えて台北へ向かうと、朱さんのお姉さん(長女=大姉、ダージェ)と姪が迎えに来てくれて、さっそく駅中の台湾料理店へ案内された。平日の午後ということもあるだろうが、巨大な台北駅の構内は想像以上に閑散としている。お姉さん(ダージェ)とは以前、日本で会ったことがあり、鎌倉を散歩したのだった。初対面の姪はスペイン語を学ぶ大学生で、7月から留学するという。カタコトの英語でおしゃべり。夕ごはんをごちそうになった後(ここで台湾の押し豆腐「豆干」のおいしさにはまった)、乗り換えの改札前で二人とあわただしく別れる。東海岸回りのローカル線の特急列車に乗り、ここから一路、南東部の都市・台東をめざすのだ。

列車が花蓮を通過するころには、窓の外は夜の闇につつまれていた。リュックサックから、コピーして持参した台湾中央研究院の文化研究者・王智明氏のエッセイを取り出して読む。タイトルは「『台湾有事』、ではどうするか?——反戦思想の活路」(丸川=盧哲史訳、『けーし風』第117号)。短いかながらも刺戟的な内容で、昨今の「台湾有事」言説への説得力ある批判だと思った。〈反戦思想の核心は……政権が民権をないがしろにすることの否定でなければならない〉。ちょうど今回の旅の数日前、蔡英文総統がアメリカを訪問し、下院議長と対談、中台関係の緊張度が一気に高まっていた。そして日本では「台湾有事」への懸念をひとつの口実に防衛費の増額、沖縄・南西諸島の軍事拠点化が進行する現在、いついかなるときもこの「民権をないがしろにすることの否定」という視点を行動の軸にしなければ、と自分に言い聞かせる。

途中の駅を通過するたびに車内アナウンスに耳を傾けると、中国語や英語のほかにも2、3の耳慣れない言語が聞こえてきた。これは台湾の閩南語や原住民のことばだろうか。

夜遅く、はじめての台東にたどりつく。駅前には台湾南東の沖合に浮かぶ孤島・蘭嶼に住むタオ族の木造カヌー「チヌリクラン」が飾られている。熱帯の生暖かい風を感じて上着を脱ぎ、あたりを見回すと笑顔の朱さんが手をふっていた。彼女の親戚が営む旅館で荷物をおろし、コンビニでアップルサイダーを買って旧台東駅の近辺を歩いてみる。深夜にも関わらず複数の種類の鳥が樹上で鳴き交わしている。その声を聴きながら、町の空気を思い切り吸い込み、大きく腕を伸ばした。

4月某日 台湾旅行2日目。水曜日、晴れ。台東にて。旅館の部屋でグアバをかじって朝食をすませ、朱恵足さん、そして彼女のお母さんとお姉さん(三女=三姉、サンジェ)とともに海沿いをドライブ。

「海山のあいだ」と呼ぶのにふさわしい野生的な土地をめぐり、名所を尋ね歩いた。なかでも富岡地質公園の海岸で出遭った、大地の背骨が剥き出しにされたかような奇岩巨石群(豆腐岩、蜂の巣岩、蕈状岩……)には圧倒された。岸辺から海に目を向ければ、はるか先にはひたすら水平線だけが広がる。人間以後の世界、ということばが頭に浮かぶ。この世のものと思えないSF的な光景に息をのんだ。

その後、かつて沖縄の漁師も多く住んでいたという漁業の町・成功へ。お母さんの知り合いが営む海産店で昼ごはん。牡蠣と豆腐の味噌炒めをはじめ、麵もスープも魚介の主菜も副菜もなにもかもおいしい。いや、おいしい/おいしくないという以前に、食べ物がからだにしっくり合う感じがするのはなぜだろう。三仙台という離れ島と陸地を結ぶ8つのアーチをもつ跨海歩橋や、日本統治時代に架けられた吊り橋などを見学し、川沿いの遊歩道を散策。カヌーで川下りをする観光客の団体が大騒ぎをしている。そのかたわらで、生い茂る木々の枝を台湾猿の群れが悠々と歩いていった。

台東の町に戻り、朱さんの部屋を借りてデスクワークをすこしする。晴れていれば緑島が見えるらしい海沿いの一室。シャワーを浴びてひと仕事終えて、夜は彼女の知り合いの地元卓球クラブの青年たちと大きな魚の頭の鍋を囲んだ。青年たちはビール、朱さんとぼくは金桔檸檬のジュースで乾杯。

4月某日 台湾旅行3日目。木曜日、晴れ。爆音で目覚める。台東には空軍基地があり、朝の7時半過ぎから戦闘機の飛行訓練がはじまるのだ。これには毎朝、閉口させられた。

この日も朱恵足さんたちとともに山側へドライブ。中央山脈と海岸山脈の谷間の町、関山で自転車をレンタルして、美しい山並みを眺めながら環鎮サイクリングロードを辿る。全長20キロ弱。森の中の道で群蝶に遭遇し、親水公園で三叉山事件(1945年、フリピンで日本軍から解放されたアメリカ人捕虜を乗せた軍用機が墜落した大惨事)の石碑などを見学してから自転車を返却し、ついでお米の産地として知られる池上へ移動。見渡す限り広がる田んぼの緑がまぶしく、風に揺れる稲穂の青い香りがただよっている。このあたりの農地ではコーヒーの栽培もしているらしく、観葉植物や雑貨も販売するおしゃれなカフェがあった。お昼時の静かな集落を歩いていても人に会うことはなく、犬だけがうろうろしている。

池上の町の食堂で麺とスープ、デザートとして豆花を食す。地元の農協的なスーパーで、買い物がてら商品の値段を調べると、こちらでも卵の値段がかなり高い。「おひとりさま*個まで」と購入制限の札もあった。日本と同様、鳥インフルエンザの流行による大量の鶏の殺処分、異常気象や飼料代の高騰などの影響による深刻な卵不足がおこっているようだ。

夜は朱さんの実家でお母さんの手作り、豚足のにゅうめんをいただいた。やさしい塩味。朱さんが帰省のたびにかならずお願いするという「おふくろの味」が、心身のすみずみまで染み渡る。お母さん、ごちそうさまでした。

4月某日 台湾旅行4日目。金曜日、晴れ。台東にて。旅館近くのカフェで美式珈琲(アメリカンコーヒー)とドーナツの朝食。午前中は朱恵足さんの部屋を借りて、編集中の本の校正刷を読み込む。今日は海の向こうに緑島が見えるだろうか、と思ってふと目をあげると、海上の霧が晴れてくっきりと島影が見えた。

昼ごはんは町中のやや高級なお店で牛肉麺を食し、市役所前の印刷所へ。何台もの複写機や製本機が並べられた作業場で、熟練の女性スタッフがてきぱきと動き、日本語の赤字を書き込んだ校正刷のスキャニングや出力をしてくれた。朱さんの部屋に戻り、日本の著者や出版社などへ電子メールで校正刷のデータを送る。週末に予定している取材の準備も済ませて安心し、ソファで寝転がってしばしのあいだ昼寝。

夕方、朱さん、彼女のお姉さん(サンジェ)や同級生たちと連れ立って温泉へ行った。水着を着て入浴するスタイル。女性たちがわいわいおしゃべりするかたわらで、熱いお湯にじっとつかり、旅に疲れたからだを休める。この日も朱さんの実家で夕ごはんをいただき、おだやかに1日をすごした。

朱さんにとって今回の里帰りは、幼なじみや女子高時代の同級生たちと旧交を温める機会でもあったらしい。いまはそれぞれに家庭をもち、さまざまな仕事をしている女の人たちを紹介され、彼女たちの昔話をひととおり聞かかされた(朱さんが高校時代に学内文芸誌の編集長をやっていたというのは、長い付き合いのなかではじめて知った)。そんな同級生のひとりが連れて来た、小学生の息子との心に残る出会いがあった。

彼の名前はタイロン。母親が台湾人で、父親がイギリス人。10代の入り口に立つ少年で、あどけなさが残る。流暢な英語をしゃべるので、家庭で英語を使用していたりインターナショナルスクールに通ったりしているのかと思ったら、そうではないという。悲しいことに、父親はもうこの世にいない。お父さんともっと話したかった、という思いから独学で英語を学んでいると聞いて胸を打たれた。朱さんがやさしくほほえんで、「今晩は父親がわりになってあげて」と耳打ちしてくる。

タイロンは家庭と学校では中国語を話し、祖父母とは閩南語で話す。英語もできるし、挨拶程度の日本語も。東京や沖縄を旅行したことがあるという。学校での彼のあだ名は「アミ」。これは完全に人種主義的なステレオタイプなのだが、イギリス人の父親の血も引くややエキゾチックな風貌と快活な少年らしいよく日に焼けた肌の色から、原住民のアミ族を意味する「アミ」と呼ばれているらしい。タイロンはそれを屈託なく受け入れ、驚いたことにアミ語の勉強もしているという。「原住民の村で買い物ぐらいはできるよ」と、おどけながら「おばさん、こんにちは。このお菓子をください。ありがとうございます」などとアミ語ですらすらとしゃべっていた。

どうして台湾を旅行しているのか、日本でどんな仕事をしているのか、好きなサッカー選手やミュージシャンは誰か。居間のソファで肩を並べて腰かけ、くりくりした目を輝かせながら英語で質問をしてくるタイロンの愛らしい姿に接して、多民族・多言語が混じり合うクレオール世界ならでは人間存在のあり方をひさしぶりに思い出した。われ多民族の血を受け継ぐ、ゆえにわれあり。われ多言語をしゃべる、ゆえにわれあり。世界の多様性をごく自然な好奇心をもって受け止め、複数の言語という通路を行ったり来たりしながら自分の視野をどんどん広げる。だってそういうことはよいことだから、と楽天的に、しかも深く信じている。ぼくが知るもうひとつ別のクレオール世界であるブラジルにも、こういう開放的なタイプの人々がたしかにいたのだ。

もじもじしながらなにか日本語を書いてほしい、というタイロンの求めに応じて、ノートに彼の名前をひらがなで書いた。アルファベットよりは日本語の表記は台湾の繁体字に近いと思っていたのだろう。「太龍」という漢字の2文字が、「たいろん」とひらがなの4文字にひらかれることに目を丸くして驚き、「うわ〜変なの〜!」とうれしそうに笑っている。日本語をもっと書いて書いて、とせがむので、彼に出会うまで今日1日におこった出来事を記した。そのページをノートからきれいに破って「はい、どうぞ」と渡すと、不思議そうにじっと見つめた後、四つ折りにしてポケットにしまっていた。

「ママ〜!」と、ダイニングで朱さんと話し込む母親のもとに駆け寄るタイロン。はなやぎを振りまくその後ろ姿を眺めながら、クレオール島の少年のおおらかな楽天主義がこのまま素直に成長しますように、そしてそれがいつかぶつかるにちがいない人生の壁を乗り越える力になりますように、と心の中で祈った。

4月某日 台湾旅行5日目。土曜日、曇り。朝、台東市中央市場で生まれ育った朱恵足さんゆかりの地を訪ねる。

父親の仕事が軌道に乗って市場を離れるまで、家族の暮らしは貧しかったという。お母さんが働いていた生地を扱う店の2階、祖父母、両親、5人きょうだいが肩を寄せ合って暮らした窓のないひと間で、就学前の朱さんは包装用の新聞紙やテレビの字幕を眺めながら文字を覚え、市場の大人たちに文章を朗読してもらい、やがて図書館で本を借りて読みはじめ、中学生になるころには海外文学を通じてはるかな世界へ思いを馳せるようになったという。

「ここはお肉屋さんだった。ここはお菓子の問屋さん、ここは女性の下着を売るお店。私が病気になると、母がここで買って来た熱い鶏スープを飲ませてくれて……」。一軒一軒の商店の前で立ち止まり、もう存在しない記憶の風景を呼び戻しながら、人生を振り返る彼女の問わず語りにじっと耳を傾ける。いまや台湾屈指の国立大学である台中の中興大学の教授となり、名実ともに文学研究の第一人者となった朱さんは、親きょうだいの期待だけではなく、この市場でつつましく生きる住民たちのもっと大きな願いを背負って勉強と学問に励んできたのだろう。路地を先に行く彼女のちいさな背中が、その重みを無言で語っていた。

その後、朱さん、彼女のお姉さん(サンジェ)とともに山側の鹿野へ。日本統治時代の移民村・龍田村のあった場所を訪ね、歴史資料館や古い日本家屋(教員宿舎や保育所)などを見学する。植民地主義の象徴である神社の鳥居の前などで「そこに立って」とか「座って」などと言われるがままポーズを指定され、写真を撮られるのだが、正直気が進まない。「なにもこんなところで……」と不平をこぼしても、「せっかく来たんだから!」と朱さんは聞き入れずにスマートフォンでばしばし撮影する。台東の別のある場所では、ぼくが「ここはずいぶんきれいな並木道だね」と何気なしに言ったのに答えて、彼女が「ああ、むかし日本人が台湾人と原住民に作らせたからね。ははは〜」と笑い飛ばしたことがあったが、こちらは笑えない。

さらにお茶畑が広がる山道をのぼり、朱さんの同級生が営む果樹園へ。ここでは「釈迦頭」と呼ばれるバンレイシの実をはじめて収穫する。台湾に来てから毎日のように「おいしい、おいしい!」と果物を食べているが、この同級生からパイナップルなどの1キロあたりの卸値を聞いてあまりの安さに驚いた。これでは農家が生活していくのは厳しいだろう。彼女は夫とともに電飾の技術を活かして旬の時期を過ぎても実がなるように工夫して栽培し、釈迦頭が市場に多く出回らず、値段のあがる時期を見据えて収穫と出荷をしているという(この2日後、2023年4月17日付の朝日新聞で「台湾パインの対日輸出、中国の輸入禁止で8倍超 農家『日本に感謝』」という記事を読んだ)。

地元の食堂での昼食後、紅烏龍(ホンウーロン)の名店へ。店主がていねいに淹れてくれた台湾茶は絶品だった。見た目は寡黙な職人風、しかし店内の雰囲気からデザイン的なセンスのよさを感じさせる若手の店主と、お姉さん(サンジェ)とは顔なじみのようで、オフグリッド住宅の建築のことなどをふたりで語り合っている。

台東の町に戻ると、雨。朱さんの実家近く、廃線になった旧鉄道の線路沿いの遊歩道を散策した。台湾桜がちょうど開花の時期で、あざやかなピンクが目に止まる。すずやかな小雨が降りしきる中を歩いていると、火照った全身が潤いをとりもどすようで落ち着いた気持ちになった。

夜、朱さんにことばの橋渡しをしてもらい、詩人の董恕明さん(朱さんの女子高の先輩)にお話をうかがった。董さんは中国・浙江省出身の父とプユマ族出身の母のあいだに生まれ、現在は台東大学で華語文学や原住民文学の教育研究をおこなっていて、彼女のエッセイは日本語にも訳されている(『台湾原住民文学選第8巻 原住民文化・文学言説集』〔下村作次郎編訳、草風館〕)。

董さんが語ってくれたのは、たとえばポーランド出身のノーベル文学賞作家オルガ・トカルチュクのこと、台湾原住民作家の孫大川やワリス・ノカンやシャマン・ラポガンのこと、そして中国の文化大革命期に迫害された知識人らのこと。「差異が大切です」と彼女は強調した。口を開く前にじっくり考え、一つひとつのことばに魂をこめて語る人だった。話題は文学のほかにも、都築響一『圏外編集者』の感想や台湾の大学教育、原住民の土地問題まで多岐にわたり、いずれも興味深い内容だった。

董さんは、文学者としてはオーソドックスなスタイルで、山海の自然と人間の交わるところから生活実感に寄り添う詩のことばを紡ぎ出す。屋久島の詩人・山尾三省の作風と近いのかもしれない、という印象を持った。

不確定的雲和雲撞在一起
很確定的風就散架了
不確定的浪和浪撞在一起
很確定的岸就扭到了
不確定的雨和雨撞在一起
很確定的山就骨折了
不確定的霧和霧撞在一起
很確定的夜就失眠了
不確定的路和路撞在一起
很確定的夢就醒了,醒來
……
 ——董恕明〈春遊〉より

4月某日 台湾旅行6日目。日曜日、晴れ。朝、台東駅から南回りの特急列車に乗り、台湾第三の都市・高雄へ。台北からの列車では時間が夜だったので車窓越しの風景が見えなかったが、この日の鉄道旅で目にした南東部の景色の美しさにはことばを失った。エメラルドグリーンの光り輝く海。これを見せたかったんだよ、と隣の席で朱恵足さんがつぶやく。

2時間ほどで高雄に到着、地図を見るとかなり大きな町だ。MRTに乗り換え岡山へ移動する。ここで、文藻外語大学で教えながら台湾文学の翻訳をおこなう倉本知明さんも合流。プユマ族出身で原住民文学を代表する作家の一人、元職業軍人という異色の経歴を持つパタイ(巴代)さんの自宅にうかがい、奥様も交えて昼ごはんをいただきながらインタビューをおこなった(インタビューを含む訪問記はいずれどこかで発表する予定)。

パタイさんの子供時代をめぐる思い出を、日本統治時代のプユマ族の村を舞台にした長編小説『タマラカウ物語』(魚住悦子訳、草風館)に登場する「マワル少年」の姿に重ねながら聞く。なんとも豊かな時間。この小説にしばしばあらわれる檳榔と陶器のかけらを用いたお守りがどういうものか、実物を見せてもらったことも貴重な経験だった。部族のシャーマニズムに通じる母親の作ったお守りをパタイさんはいまも使っていて、台北や海外のホテルに泊まる時などにはかならず部屋の東西南北の隅に置いて結界を張り、邪気を払うという。

インタビューを終えると、あっという間に夕暮れ。パタイさんが車で橋頭の駅まで送ってくれて、ここでお別れ。作家の風貌や体格はいかにも軍人らしいがっしりしたものだが、若い頃は憂愁を漂わせる細身の文学青年だったという。帰り際に固い握手を交わしたこの分厚い手のひらから、原住民の歴史物語をめぐる文学が生み出されるのだ。老練な知性と無垢な心をあわせもつ、魅力的な人柄だった。

駅前のちいさな食堂で朱さん、倉本さんとサロンパス味(!)の台湾コーラで乾杯し、麺を食べる。軽い夕ごはんを終えて、彼はスクータに乗って颯爽と帰って行った。ちなみに、倉本さんは日本でも話題の歴史グラフィックノベル『台湾の少年』(岩波書店)や呉明益の小説『眠りの航路』(白水社)の翻訳者として知られるが、その訳書のなかでぼくがもっとも好きな作品は、蘇偉貞の長編『沈黙の島』(あるむ)だ。

高雄再訪を誓い、こんどは在来線の電車で古都・台南に向かう。橋頭からおよそ30分。あいにく若者たちの帰宅(あるいは夜の町に遊びに行くのだろうか)のラッシュとぶつかり、席には座れず朱さんと立ち話をしているうちに台南到着。駅前の地下通路に横たわる多くのホームレスらしきの人々の顔を横目で眺めることしかできず、心の水面が波立った。小ぎれいなホテルに投宿し、冷房の効いた部屋のベッドの上に寝転がって物思いにふける。

4月某日 台湾旅行7日目。月曜日、晴れ。台南にて。ホテルをチェックアウトし終日、観光を楽しむ。朱恵足さんの案内で定番のお廟やオランダ統治時代の史跡などをめぐり、白うなぎのスープなど地元の料理や、牧野富太郎が学名をつけた果実・愛玉の種子から作られた寒天風のスイーツなどを食べ歩いた。台湾文学館では「食と文学」をテーマにした屋外の路上展示をしていておもしろかった。例のサロンパス味(!)の台湾コーラに捧げられた詩まである。

黄昏時、信じられないぐらい巨大なガジュマルの枝々に飲み込まれたイギリスの貿易会社(のちに日本の塩業会社)の倉庫跡地も訪ね、ここがよかった。閉館時間まで木陰のベンチに腰掛け、朱さんと家族や子供のこと、最近の仕事のこと、これまでの旅のことなどを、まるで学生時代のようにのんびりと語り合う。台湾の西部で日没を見ようと海岸へ急いだが、この日の水平線は厚い雲がかかっていて願いは叶わず。

一日中、熱帯の強烈な日差しを浴びながら歩き回ったので、すっかり体力を奪われた。へろへろの状態で台湾高鉄(新幹線)に乗りこみ、台中の朱さんの自宅へ向かう。

4月某日 台湾旅行8日目。火曜日。台中にて、曇天の朝を迎える。

近所を散歩すると、どこからか歌声が聞こえる。なんとお廟の外の東屋にカラオケの機械とモニターが設置され(有料)、朝っぱらからおじいさんやおばあさんがしっとりと歌っているではないか。これはお廟のお布施集めの一環であり、地域のお年寄りの拠り所としても機能しているというが……。聖地とカラオケ、なかなかシュールな組み合わせ。見物をしていると、人懐っこい笑顔を浮かべるおじいさんが「さあ、こちらにいらっしゃい」と手招きをするので、慌てて一礼をしてお廟から逃げ出した。

はじめて台中を訪れたのは2008年のこと。15年前に訪れたのと同じ屋台で、麺と豚の内臓のスープの朝食をとる。その15年前、台中駅の裏手には戦前、鉄道関係の仕事をしていたぼくの祖父やこの地で生まれ育った父が住んでいた地区があり、瓦葺きの平家の日本家屋も何軒か残っていた。この日に訪ねると、駅そのものが大々的にリニューアルされて駅前も現在進行形で再開発中、日本人地区は跡形もなくなっている。目に見える風景はすっかり変わった。しかしこの場所に立つたびに、懐かしい思いと懐かしんではならないという思いが入り混じり、複雑な気持ちになることに変わりはない。植民地主義の暴力に直接的な責任を負うことはできないが、この暴力の歴史がほかならぬ自分自身を作ったという事実が、からだの深いところで疼くのだ。

台中市第三市場で牛奶果(スターアップル)など珍しい果物を買った後、誠品書店で(繁体字を読めるわけでもないのに)何冊かの本と雑誌を購入。朱さんの解説を聞くと、歴史をテーマにする美術家の高俊宏の著作《拉流斗霸:尋找大豹社事件與餘族》《橫斷記:台灣山林戰爭、帝國與影像》は読み応えがありそうだ。

最後の夕暮れ。台中の中心部の高層ビルとビルの合間、白い雲の向こう側で赤々と燃えさかる太陽にしばし見惚れ、立ち尽くす。

待ち合わせたレストランで出会った日本からの留学生で、朱さんの教え子でもあるHさんが先月刊行されたばかりの『うつくしい道をしずかに歩く——真木悠介 小品集』(河出書房新社)をかばんから取り出した。本書の編集協力をしているのでびっくり。最近、台湾に遊びに来た両親が届けてくれたそうだ。ところでこのレストランでは、待望の臭豆腐を食べることができて大満足、 Hさんもおいしそうに料理を平らげている。

日本の家族へのお土産を買ったり朱さんが通う卓球教室を見学したりした後、彼女とともに夜市の通りを歩き、熱くて甘い芋入りのおかゆを持ち帰った。

4月某日 台湾旅行9日目。水曜日、曇り。台中にて。「朝はあまり食べないから控えめでいいよ」と言っているのに朱恵足さんとの朝食は毎回テーブルにご飯や麺の主食と一汁三菜がずらりと並ぶ。朝食にかぎらず、朝昼晩の三食、ちいさな体でよく食べる。そんな朱さんとの屋台での最後の早餐、冬瓜のスープがおいしかった。

旅の最後の最後、町の中心部にある国立台湾美術館で日本統治時代を生きた彫刻家・黄土水(1895〜1930)の大型銅板レリーフ「水牛群像」に対面し、生きとし生けるものの生命力とは異なる、時間を超越したものの不朽の生命力のようなものに畏怖の感情を抱く。これが芸術の力か。

美術館前から乗車したタクシーの運転手は「縁があるのか今日は駅までお客さんを乗せていくのは、これで6回目ですよ〜」と笑いながら、ぐんぐんスピードをあげていく。高鉄の台中駅まで見送りに来てくれた朱さんと別れの握手を交わした。9日間も一緒に過ごしたので名残惜しいが、出発時刻が迫っているので早歩きでプラットホームまで向かう。新幹線で1時間足らずで桃園に到着し、空港で手続きを終えて飛行機のシートに腰を沈めた。こんなふうにして、旅の幕はいつもあっさりと降ろされる。機内の窓から外をのぞくと、土砂降りの大雨で、景色らしい景色はもう何も見えなかった。