ベルヴィル日記(12)

福島亮

 ぐっと冷え込みはじめた。夜間は気温が10度を下回る。薄い掛け布団ではちょっと寒い。先月はトラヴァサックの暑さについて書いたのに、今度はパリの寒さについて書いている。秋だ。どんどん空が遠くなる。飛行機雲がその空を切り裂いてゆく。鋭角や直角、平行線を描く飛行機雲を見ていると、緯度と経度の見えない線が、この空に張り巡らされているのだと実感する。

 今年はプラムをあまり食べていない。ミラベルも、試してはみたが、手に入れたものはあまり良い出来ではなかった。かわりに1週間に1回くらいの割合で食べているのはサボテンの実だ。ウチワサボテンの実で、フランス語ではフィグ・ドゥ・バルバリー、つまり「野蛮人のイチジク」という。イタリア語では「インディアンのイチジク」というらしい。どちらもなんだか口にしにくい呼び名だ。イチジクに似た卵型の実の上と下を切り取り、かつらむきのように皮を剥がす。コツはケチらないことで、皮と実のあいだの剥がれやすい層を利用して皮を剝く。この層はほとんど味がなく、舌触りもヌルヌルしているから、棘の生えた表皮ごと剥ぎ取ってしまった方が美味しい。中には水っぽい果肉とケシの実のような種がたくさん入っているが、私は気にせず、噛まずに舌で果肉を味わってから飲んでしまう。実には緑や黄や赤のものがある。意外なことにもっとも香りがよくて美味しいのは緑の実だ。赤は大味であまり良くない。

 この「ベルヴィル日記」は、「日記」と題しているものの、実際には、たいてい月末に急いで書く。だが、いまこの文章を書いているのは月末ではなく、月の真ん中である。途中でやめて、しばらくしてからまた書き足したり、削ったりする。

 なぜ月の真ん中に書き始めたかというと、『水牛 アジア文化隔月報』と『水牛通信』を手元にあるだけすべて読むという作業に没頭しており、触発されたからである。両方とも、PDFにする際に一度通読している。だが、それは4年も前のことだ。通読してみて、随分と記憶が曖昧になっていたことに驚いた。

 過去の記事を読んでいると、ハッと胸を突かれることがある。たとえば、本橋成一さんの写真とコメントからなる「上野駅・サーカス・筑豊で会った人たち」(『水牛通信』Vol. 4 No. 5、2−23頁)。印象的だったのは、見開きで印刷された兄妹の写真だ。学生服の兄は、目を糸のように細くし、妹のほうは髪を風になびかせながら片目を閉じている。背景には田舎の風景。筑豊だという。頁をめくると、家の戸口に立つ四人家族。1965年頃撮られた写真だそうだ。あの兄妹と二人の両親だろう。父親のほうはまっすぐカメラを見つめ、少し緊張した面持ちだ。母親のほうはそんな夫を見て笑っている。悟平さん一家の写真である。写真を撮った本橋さんのコメントが付されている。

お父ちゃんはいつも〔息子の〕静夫をぶん殴る。でも静夫はお父ちゃんが大すきなんです。お父ちゃんは金がはいると焼酎をのんで、炭住の売店なんかで寝こんじゃうんですよ。それをこの兄弟が一所懸命につれもどすんだけど、なかなか家にはいらないでしょう。そのうちに長屋の人たちがあつまってくる。そうするとね、静夫は洗面器に水をいれてきて、「行けーッ、見るなッ!」と、それをぶっかけるわけです。(18頁)

 この写真が撮られた1965年頃は、筑豊炭田が次々と閉山する時期である。実際、悟平さんが働いていた山も閉山し、一家は生活保護で暮らしていた。引用したのは、少しずつ寂しくなってゆく筑豊の、温かいような、でも辛いような一場面だ。頁をめくる。お父ちゃんが大すきだった静夫は、もういない、と知る。中学卒業後、些細な事件を起こしたことをきっかけに収監され、その後、川崎で覚醒剤の売人になった静夫は、1980年の夏のある日、川崎の路上で首と腹を切って自殺したのだという。もしも静夫が生きていたら、いま還暦くらいだろうか。

 文章を読む。そして、何かを書く。時間などどうでも良くなる。だが、どこかで焦っている自分もいる。というか、ここ1、2年はずっとそうだった。畝を切るように文字を読み、地面を引っ掻くように文字を書きたい。そんなことを思いながら、デイヴィッド・グッドマンさんの「走る・その18」(『水牛通信』Vol. 9 No. 9)を読む。彼にとって「他人の言語」であるはずの日本語で執筆することについて、グッドマンさんはこう書いている。

他人の言語で文章を書くことは、試験を受けることではない。人を人から隔てている、深い傷口を癒すことである。自分と相手の間の距離を確認しつつ、それでもなお、あえて関係を作り、維持していく作業である。(『水牛通信』Vol. 9 No. 9、3頁)

 外国語で書くことは、「深い傷口を癒すこと」。私としては、「他人の言語」という部分を、もっとも親しんだつもりの言語、「私の言語」に置き換えてみたくなる。自分が話しているこの言語、時におざなりな気持ちで「母語」と呼んでしまうこの言語。そこに歪みや異物があることに、目を背けてきたことば。そのことばで書くことは、はたして深い傷口を癒しうるだろうか。

 9月25日、フランス在住の日本人画家H氏が逝去した。ある画廊で知り合ってから、ずっと連絡をとっていた。私の祖父くらいの年齢の友人、といったところだ。凱旋門からそう遠くないところにある小さな画廊でよく展覧会を開催していて、ヴェルニサージュに呼んでいただいたことも何度かある。また、一度は家に泊めていただいて、ワインを飲みながら夜遅くまでおしゃべりしたものだ。話好きの好々爺だった。私が群馬出身であることを伝えると、懐かしそうな顔をなさって(氏は半世紀以上フランスに住んでおり、こちらの生活の方が長いのだ)、若い頃、よく絵の具を買いに群馬の高崎に行ったという話をしてくれた。ここしばらくは身体の調子が悪いといってお会いすることもできなかった。頻繁にご入院なさっていたようだけれども、面会も叶わず、電話をしてもずっと留守だった。いつの間にか、H氏と私とのあいだに淵ができていて、もうこちらからは声が届かないような気がして怖かった。それは傷口というよりも、何かもっと深い穴だ。いつでも会えると思っていたのに、ふと、その穴が顔をのぞかせ、相手とのあいだにこえられない淵を作る。そんなことを思っている矢先の訃報だった。日本に帰る前に、小さな絵を一枚買おうと思っていた。でも、もうそれも叶わない。今は使っていない古い携帯電話の留守番メッセージには、まだH氏の声が残っているかもしれない。電話が起動するかわからないけれども、充電器に繋いでみようか。それとも、やめておこうか。