11月はじめ頃は、コートを着ていると昼間など少し暑いと感じる日もあったのに、半ば頃から急に冷えて、朝は寝床から出るのも一苦労だ。壁の薄い本小屋で、しかも窓のすぐ近くに机があるために、冬は寒いだろうなと覚悟はしていたが、パソコンに向かっていると足元や指先や背中がどんどん冷えてくる。
小学生くらいまでの家族写真を見返すと、冬の写真には褞袍——どてら、ってこんな温かそうな漢字なんだ——を着て雪だるまみたいにふくれた子どもたちが写っている。灯油ストーブに乗せたやかんの笛のけたたましさ、「みかんを焼くと甘くなるんだって」と、きっと友だちか、あるいは「伊東家の食卓」から情報を得て、橙色の皮をストーブで焦がしたときの微かに甘い匂い。そんな遠い記憶がふと甦ったかと思うと、写真の子どもたちは、急にいきいきと灯油ストーブの上で様々なものを炙って食べはじめる。干芋、餅、団子、するめ、林檎。灯油ストーブの上には小さな鍋も乗っていて、酒粕で作った甘酒が熱くなっている。
5歳か6歳の頃——というのも、7歳の時に子どもたちは田舎の家に引っ越したから——、子どもの膝くらいまで雪が積もったことがあった。彼らが暮らす群馬県渋川市有馬のアパートには、広い共用駐車場があり、その一面が雪で埋もれた。本で読んだ「かまくら」を作ってみたくて、雪をかき集めると、高さ1メートルくらいの山ができた。今度はそれをくり抜いて、人が入れるようにする。どれくらい時間がかかったか、やっと作った小さなかまくらに潜り込むと、ぼんやりとした薄暗さと、不思議な暖かさに包まれた。「雪がかき氷だったら良いのに」と思っていた彼には、かまくらの中から見る雪が、なんとも美味しそうに見えた。指で雪を摘んで口に含むと、冷たさの後に微かな水の甘さと鉱物のような味が残る。もう一口、もう一口、と雪を食べ続ける。と、途端に視界が真っ暗になった。かまくらが崩落したのである。彼は、シロアリが家を朽ちさせるように、かまくらを内側から食べ、崩してしまったのだ。
その後、誰からか忘れたが、「雪は汚い」と教えられた。確かに、コップに雪を入れて放置しておくと、とても飲みたいとは思わない濁った水になる。雪、というものの成り立ち自体が、空気中の埃を核に結晶ができるわけだから、綺麗なはずはないし、大気中に漂う物質をこれでもかと吸着しているはずだ。だが、それでも彼にとって、雪を口にふくみたいという誘惑に争うことは至難の業だった。今年は雪が降るだろうか。寒々とした本小屋で指先をかじかませながら、あのふうわりとした雪を思い出してみる。