本小屋から(9)

福島亮

 久しぶりに朝早く目覚めたので、白む空を見ながら軽く散歩をすることにした。外に出ると、湿気をまとった空気に包まれる。風は吹いているのに、大気はもったりしている。亜熱帯の空気を感じながら、7年前、初めてマルティニックを訪れた時の朝の景色が記憶の底からじわじわと甦る——就寝前につけたレモンの香りの蚊避け蝋燭がまだ灯っていて、部屋の隅で仄かな光が揺れている。目を覚ました私は、その光を蚊帳の内側からぼんやり眺める。やがてスコールが屋根を打ち、建物に穴があくのではないかと思うほどの轟音が響く。だがそれも5分もすれば静かになって、寝る前からずっと聞こえていたはずの蛙の鳴き声が再び聞こえてくる。蛙といっても、親指の爪よりも小さい極小の蛙。笛のような高音を奏でるから、私の耳にはヒグラシの蝉時雨のように聞こえる。身を起こし、冷たいタイルの床にそっと足をつき、綿のシャツを着て家を出ると、微かに空は白んでいて、隣家の犬や野良の鶏が濡れた草の上ですでに活動を開始している……。

 多摩川の岸辺に出る。早朝ランナーが2、3人。それから、魚の観察でもしているのか、浅瀬に入って何やら話し合っている人が3人。シロツメクサやムラサキツメクサが広がっている。石ころと花のあいだを歩きながら、東中野ポレポレで観た奥間勝也監督「骨を掘る男」(2024年)のことをぼんやりと考えていた。沖縄戦遺骨収集ボランティアとしてガマを掘る「ガマフヤー」具志堅隆松さんを追ったドキュメンタリーだ。冒頭、真っ暗なスクリーンにガマの闇と小さなライトの光が映る。井戸の底を覗き込むような怖さと苦しさが込み上げてくる。その闇のなかに、80年近くにわたって弔われることなく置き去りにされた人々がまだいるのだ。具志堅さんは小さな道具を用いて慎重に土を掘る。もうずいぶん深く掘っただろうに、と思った途端、瑠璃色の茶碗のかけらが出てくる。たしかにそこに人がいた痕跡。傷つけないよう細心の注意を払って掘り出される遺骨や遺品の数々は、彼らがどのようにして死なねばならなかったのかを言葉すくなに語り始める。片方だけ脱げた靴、かんざし、ひしゃげたキセル、乳歯。

 私が「骨を掘る男」を観ようと思ったのは、南部土砂問題に関心を持っているからだ。来年で戦後80年になる。だが、土を掘ればいまだに遺骨が出てくる。遺骨の収集がまだできていない土を削り、石灰岩を掘り起こし、それを辺野古の埋め立てに使う計画が進行している。「骨を掘る男」のなかでも取り上げられているように、DNA鑑定による遺骨の身元特定を厚生労働省が行なっているが、埋め立て用土砂に遺骨が混ざってしまった場合、その身元は永遠にわからなくなるだろう。そもそも、地上戦が行われ、おびただしい砲弾が撃ち込まれ、幾人もの人々が殺された土地を掘り返し、米軍基地移設の土台に使うことがどうして許容されようか。そのような死者の尊厳の蹂躙に加担する仕組みのなかにいることの後ろめたさを感じる。

 じつはカリブ海でも奴隷制時代に埋葬あるいは遺棄された奴隷の遺骨の発掘が少しずつなされている。もうしばらく前になるが、人々が海水浴を楽しむ浜辺の下、数十センチのところから奴隷の遺骨が発掘されたこともある。もっとも、古いものとなれば300年以上前の遺骨だから、どれほど精密な科学的分析が可能か私にはよくわからないのだが、やはりDNAの分析は行われている。会ったことのない人、しかし、たしかにそこにいた人に辿りつく、ほとんど最後の手がかりが遺骨だ。南部土砂問題の向こうに、私は微かにカリブ海の砂浜を透かし見ている。

 「骨を掘る男」は東中野ポレポレで7月中旬頃まで上映される予定だという(https://pole2.co.jp/coming/65f2f7eca236de71aef20d99)。北海道シアターキノ、宮城県フォーーラム仙台など、全国の映画館で上映されるそうだ。