連休明け、ベランダのプランターに、ミニトマト、シシトウ、ピーマン、エゴマ、そしてミントを植えた。庭があるわけではないから、園芸用の土を購入した。多摩川の近くに住んでいたころも、やはり同じように土を購入し、植物を育てていた。そのとき最も困ったのは、不要になった土をどうするかということだった。植物を古い土から新しい土へ植え替える。その際、古い土はどうしたらよいのか。庭があれば、大地に返してやることもできるのだろうが、その庭がない以上、どうにか「処理」しなければならない。東京都のホームページを見てみたが、園芸用土の回収はおこなっておらず、回収業者に連絡をせよ、とある。そこで回収業者に連絡をしてみるのだが、プランターひとつ分で回収費用8000円というではないか。いくらなんでも無茶苦茶だ。そもそも8000円の内訳は何なのか。そして回収された土はどのように処理されるのか。まさか、まとめて山奥に持っていき、夜陰に紛れて……なんてことはないだろうね。山で生まれ育った私は、人目につきにくい土手などに、家電が捨ててある光景を何度も見てきたから、疑り深くなってしまう。結局、不要になった土は実家に持っていき、庭の片隅にまいた。今度もまた、同じ羽目になるのだろうか。土を買う、土を捨てる。そういう発想が、本当はどこかおかしいのかもしれない。本来、土はどこにでもあって、買ったり売ったりゴミとして捨てたりするものではないのだろう。
そんなふうに、なんとも言えないモヤモヤした気持ちはあるものの、さすが栄養満点の市販の土である。プランターに植えた苗はすくすく成長し、花をつけはじめた。ミントにいたっては、ランナーをのばしてプランターの外に出ていこうとする元気の良さである。そこで、どんどん葉をむしって、ミントティーにする。耐熱ガラスのポットに10枚ほどの葉を入れて、熱湯を注ぐと、あっという間に湯が淡い緑色に染まる。
清涼感のある熱い液体を口に含むと、パリで暮らしていた頃よく行ったクスクス屋の暗い店内の光景が甦ってくる。ふんわりと皿に乗せられたクスクスに、野菜と肉をクタクタになるまで煮込んだスープをかけ、最後に唐辛子とニンニクと塩で手作りしたアリッサをたっぷり添えたものを腹一杯になるまで楽しむ。こちらがもう食べられないという頃合いを見計らって、ミント入りのお茶(テ・ア・ラ・マント)が出てくる。赤褐色の、甘く、爽やかなそれを飲むと、口の中は爽やかになるし、不快感と紙一重だった満腹感がすっと快感へ変わるから不思議だ。ミントを口にする喜びを知った私は、週2回行われる市場で毎度ミントを買うようになり、飲んだり、葉をちぎってサラダに入れたりした。市場のミントはタダ同然に安かった。
あの夜も、そんなふうにミントを楽しんだのだろうか、とふと思う。2019年10月某日、北駅近くのイベントスペースで、ケニアの作家グギ・ワ・ジオンゴにサインをねだった日の夜だ。おそらく、その頃はまだメニルモンタンの部屋ではなく、ジュールダン大通りの学生寮に住んでいたから、毎日のようにミントを楽しむようになる前のはず。それでも、口の中の清涼感によって導き出された過去は、いくつかの層があいまいに縺れあっていて、複数の時間が同一平面に描かれた絵巻物のように、6年前のことと5年前のことが隣り合っている。
グギのことが想起されたのは、きっと、5月最後の月曜日に、大学の講義で彼の人生と仕事について話すことになっていたからだと思う。それでも、彼が書いたものではなくて、その人の声や佇まいが思い出されたのは、職業的な目的意識とはまた別のもの、どこか小説じみた想起の糸の絡みあいのせいでもあるだろう。プレザンス・アフリケーヌ社主催のイベントに招かれたこのケニアの作家は、やはりその場に呼ばれていたナイジェリアの作家ウォレ・ショインカが、イベント終了後、ほとんど神技のような身軽さで、すっと姿をくらましてしまったのとは対照的に、ゆっくりとサイン用のテーブルに移動し、彼と言葉を交わしたいと願う人々と、やはりゆっくりと話しながら、自著のフランス語訳にシルバー軸のボールペンでサインをしてくれた。
グギの人生について、そして彼が成し遂げた困難な仕事について、私のできる範囲で、拙く、たどたどしく学生たちに話した。旧宗主国の言語とそれ以外の言語との間のヒエラルキー、出版と言語、執筆と言語との関係……そんな複雑なことを、手際よく話すことは私にはとてもできないけれども、学生たちはよく耳を傾けてくれた。グギの訃報をニュースで知ったのは、その2日後のことだった。87歳だったという。ほんの一瞬、その佇まいに接しただけではあるけれども、何年か経っても、ふと思い出すことのある人だった。