ぼくがおれに変わった日・続編

篠原恒木

おれは昔、ぼくだった。
先月と同じ書き出しだが、気にしないでもらいたい。
「ぼく」だった頃がこのおれにもあったのだ。生まれてこのかた、ずっと「おれ」だったわけではない。

四十年も前のことだ。ぼくは出版社に入社して、週刊誌の編集部に配属された。そう、この頃は「ぼく」だったのだ。右も左もわからず、ひっきりなしに編集部にかかってくる電話を取るのがひたすら怖かった。ぼくは間違いなく会社の中でいちばん仕事ができないニンゲンだった。

当時は「出張校正」というシゴトがあった。
週刊誌はニュース・ページをいちばん最後、つまりは発売日の直前に印刷所へ入稿する。ニュース・ページの入稿最終締め切りは金曜日の深夜、つまりは土曜日の朝だった。その土曜の朝イチに印刷所へ入稿されたニュース原稿のゲラをチェックして素早く校了するために、土曜日の昼前に印刷所へ「出張」して、その場で夕刻までに責了する。これなら印刷所とのやりとりの時間が大幅に省略できるというメリットがあった。以上が当時の出張校正の大雑把な内容だ。

初校ゲラを受け取り、出張校正室に待機している校閲者のヒトビトに配ったり、原稿の疑問点を記事の担当者に電話して解決したり、行数を整えたり、初校ゲラを戻したり、活版印刷の本文部分と写植部分の見出し・写真などの赤焼きを切り張りして校了紙を作るのは、すべて新入社員、つまりはぼくのシゴトだった。当時はすでに週休二日制が導入されていたが、ぼくは毎週土曜日にこの出張校正があったので、休みは日曜日のみだった。そして一年経って、新しい後輩部員が入ってきても、なぜかこの出張校正は相変わらずぼくが担当していた。

印刷所の出張校正室は古びていて、一日中陽の当たらない殺伐とした部屋だった。使い込まれた机を繋ぎ合わせた作業スペースと、その机の上に電話が一台あるだけだ。ぼくはあの灰色の部屋に行くのが憂鬱で仕方なかった。印刷所は国鉄の駅から勾配のある坂をダラダラと上ったところにあったが、急な坂道を毎週ヨロヨロと歩くたびに、気分が沈んできた。

昼前に出張校正室に入ると、やがて校閲者の方々がやって来る。初校ゲラが部屋に届けられる前に、弁当が支給された。この弁当があり得ないほど不味かった。大学を卒業したばかりで、それまでの二十二年間にロクなものを食べてこなかったぼくでも、この弁当は食えたものではなかった。平べったい弁当箱の蓋を開けると、白飯の真ん中に小梅が埋め込まれ、おかずは大きな厚揚げの煮物と少量のきんぴらごぼう、といった「全面的かつ徹底的に茶色」という塩梅だった。肉もなければ魚もない。さぞや味付けも濃いだろうと思われるだろうが、これが全面的かつ徹底的に薄味なのだ。つまりはめしのおかずとしてまったく機能しないという悲しいものだった。だが、文句をいう訳にもいかず、ぼくは毎週その弁当を黙々と食べていた。
「よく食べるなぁ。おれの分も食べていいよ」
校閲者の方にそう言われ、固辞できず二個目の弁当に箸をつけて、むりやり胃に押し込む日もあった。辛かった。
そうこうしているうちに朝イチで入稿された原稿が初校ゲラになって出張校正室に届けられる。ぼくはそのゲラを校閲者の方々へ配り、自分の分も確保して、本文に目を通す。そこでぼくは必ず愕然とする。
「今週もやっぱりそうか」
と、途方に暮れるのだ。初校ゲラの余白に、原稿が二十行もハミ出している。週刊誌の記事は短いものだと見開き二ページだが、その二ページの原稿で二十行も超過しているということはどういうことなのか。答えはひとつしかない。入稿がいいかげんなのだ。ちゃんと行数を確認して、原稿を整えておけばこんなバカなことは起こらない。ぼくは憂鬱な気分で、その記事の担当者の自宅へ電話をする。出ない。早朝に原稿を「あらよっ」と入稿して、今頃は布団にくるまっているのだろう。ぼくはしつこく電話を何回もかける。ようやく出た相手は不機嫌そうな声だ。
「なんだよ」
「あのですね、本文が二十行もオーヴァーしているのですが、どうしましょうか」
「そっちでなんとかしてくれよ。こっちは徹夜明けなんだよ」
実にあっけなく電話は切れる。徹夜明けだと言うが、ぼくだって昨夜は午前三時まで編集部で仕事していたのだ。そして約百六十行の本文が百八十行になっているのだ。「なんとかしろ」と言われても、二、三行のハミ出しならなんとかするが、二十行を削るには本文中のエピソードをひとつ、場合によってはふたつ、バッサリと落とさなければならない。だが、その記事を直接担当していないぼくが勝手に
「よおし、この証言とこの発言をカットしちゃえ」
と、削ることはできない。校閲はすでにチェックを終え、疑問点を鉛筆で指摘している。ここは初校ゲラを一刻も早く戻して、再校ゲラを出さなければならない。ぼくは仕方なく、また二十行ハミ出しの担当者に電話する。
「ああ、何度もうるさいな」
「本文中に疑問点がいくつかあります。そして二十行オーヴァーはどこを削ればいいでしょうか。で、写真のキャプションがすべて抜けているのですが」
「キャプション? ああ、そう言われれば書くのを忘れたかもな」

次の記事のゲラを見ると、こちらは本文が十行足りない。「ゲタ」と呼ばれる記号のようなものがむなしく本文の終わりに十行分並んでいる。これはどういうことなのか。繰り返しになるが、答えはひとつしかない。入稿がいいかげんなのだ。ちゃんと行数を確認して、原稿を整えておけばこんなバカなことは起こらない。ぼくはますます憂鬱になり、次の十行不足担当編集者の自宅に電話する。三回目でようやく繋がった。
「なんだよ」
「あのですね、本文が十行足りないのです」
「十行足りない? そんなはずないぞ。ちゃんと行数は揃えたからな」
「しかしですね、実際に十行分のアキが生じているのです」
「そっちでなんとかしろよ。なんか足せばいいだろう」
再びあっけなく電話は切れる。ぼくは仕方なく初校ゲラではなく、生原稿を校閲者から借りてチェックする。当時の生原稿は「ペラ」と呼ばれていた二百字詰めの原稿用紙に黒鉛筆で手書きされていた。正確に言えば二百字詰めではない。週刊誌の字詰めに合わせて、一行十三文字のマス目が十行縦に並び、その下には書き込み用の余白スペースが設けられていた。
その生原稿をパラパラめくっていくと、六行分の手書き文章が赤鉛筆で削られていた。よし、この六行を復活させればいい。六行のなかに危険な文言、あるいは記事になったときに問題になりそうな発言などが入っていないかを確認して、大丈夫だと判断したぼくは初校ゲラに手書きでその六行を赤鉛筆で加えていき、残りの四行はどうにかこうにかやりくりする。

また別の初校ゲラが届いた。こちらは二行ハミ出しなので、なんとかなるのだが、校閲者から疑問点がいくつか指摘された。これは担当編集者本人でないと解決できない。ぼくは三人目の編集者の自宅に電話する。夫人と思しき女性が出た。
「ご主人さまをお願いしたいのですが」
受話器の向こうで一瞬の沈黙が流れて、
「今日は締め切りで帰らないと申しておりましたが」
と、戸惑ったような声が聞こえる。
いや、締め切り日は昨夜で、今日は締め切り明けなのですが、とは口が裂けても言えない。二十二歳の坊やでもそのくらいの機転は利く。
「失礼いたしました」
受話器を置いて、ぼくは再び途方に暮れる。

そんなとき、出張校正室に置かれた壊れかけのTVからニュースが流れてきた。有名芸能人の急死を伝えている。ぼくは嫌な予感がする。数分後、出張校正室の電話が鳴った。編集長からだった。
「二ページ、記事を差し替えるぞ。何を落とす? ラインナップを読み上げろ」
ぼくは今日校了分の記事のタイトルをすべて電話で伝える。編集長の判断は、偶然にも二十行ハミ出しの二ページ記事だった。このことがこの日唯一の幸運な出来事だ。
「レイアウト・マンと記者、アンカーに連絡してくれ。芸能班のデスクにもな。あ、おまえはいまからすぐ編集部に行って、顔写真を何枚か選んでこい。頼むぞ」
腕時計を見ると午後一時を過ぎていた。校了のデッド・ラインまであと四時間しかない。ぼくは大急ぎで初校ゲラを戻して、各方面に電話をかけ、あたふたと印刷所を飛び出し、編集部へ向かい、写真がストックされているキャビネットから生前の芸能人の顔写真を十枚ほど選んで出張校正室に戻る。机の上には差し替えページを除いたすべての再校ゲラが置かれていた。めでたくすべて行数はピタリと合っていたが、これらも素早く捌かなければならない。そして差し替えページの進行作業も並行して進めないと間に合わなくなる。いまから一時間ほどで責了者である編集長が出張校正室にやって来る。あっ、そうだ。表紙のタイトルも差し替えなければならないはずだ。さっきの電話で編集長は何も言ってなかったけれど、九十九パーセントの確率で表紙タイトルも差し替えだろう。ああ、印刷所のヒトに表紙の校了紙を引き上げてもらうようにとお願いしないと。いや、表紙はもう印刷を始めているかもしれない。うおおおおおおおお!

こんなことを毎週、二年間も繰り返せば、「ぼく」は「おれ」になるに決まっている。ココロがすさんでいくのだ。あの日々以来、ぼくからおれになったおれはおれのままである。そんなおれを誰が責められようか。おれは今でも深夜に悪夢を見る。本文の行数を揃える夢だ。夢のなかのおれは必死に初校ゲラの本文を削ったり足したりして、行数を指定通りに整えるのだが、出てきた再校ゲラはきまって二行ハミ出していたり、一行足りていなかったりして、何度繰り返しても一向に行数が合わないのだ。四十年前のウマシカたちのおかげで、おれはいまだにトラウマを抱えている。