「図書館詩集」9(すぐそこにある山まで雲が下りてきて )

管啓次郎

すぐそこにある山まで雲が下りてきて
山頂の城が白くかすんで
見えたり見えなかったりして
しずかな昔がそこにやってきたようで
でも昔もじつはやかましくて
ここもかつては戦国時代で
その火種の中心のひとつだったってさ
山地から平野へ
川の流れが生む地形に
歴史が草のように生えてくる
ああ、いやだいやだ
「戦国時代」とは強欲の時代
殺人、略奪、強姦、火つけ
ここでは食えないから奪おう、という残忍な思想を
かれらを食えなくする当の領主どもから
植えつけられれば嬉々としてしたがい
かれらが浸りきったそんな考えが
やがて近代となれば国家の外に向けられたのか
岐阜という名前にひっかかっていた
何がそこで分岐し
どんな丘がなまなましくふくらんでいるのか
運命の分岐を語るのは簡単だが
実際のようすはモヤモヤしてわからない
なだらかな丘陵をつらぬいて
水の龍がうねるのか
でも現実にでかけてゆくと
そこにも地形のドラマがつづく
山地が終わる土地だ
平野がはじまる土地だ
水量のある流れが
おびただしい魚を生む
海から連れてこられた鵜が
かわいそうに人にいいように搾取されている
それも土地の風物らしい
迫る山の上にある城が
心を騒がすけれど
あの城だって城跡にすぎないのだ
城は城を継いでおなじ場所に降りつもる
城跡に城がまた建てられて
時間とか時代とかが圧縮されるわけ
それにしても恐ろしい高さだ
土地をよく睥睨し
世界の終わりを見るのにちょうどいい
信長はここで何を思ったのか
ある人間の生涯を
いくつかの時の断面において見ようとするなら
あるひとつの時刻に
うすいフィルムを挟みこみ
そこに映る存在しない写真において見ることになる
未来を知らないかれらの未来を
われわれは過去として把握しているのだから
残酷だね
意図せずして残酷
彼女や彼の本質的な転回の
あるいは改心の、改悛の、
決意の、決定の、
姿勢や表情もすべてフィルムにくっきりと映って
すべては透明な凧のように空中に浮かんで
びゅんびゅん唸っている
信長にこの城を奪われたのは斎藤なにがし
城を整備したのはその先々代の斎藤道三
自分の息子に殺された道三
いまでも岐阜市では毎年「道三まつり」があるそうだ
なぜ現代にまで武将崇拝がつづくのか
たたるとでも思っているのではないか
道三にしてもそれ以前にこの城の原型を築いた
誰かからその原=城を奪ったわけで
そのまえには砦があって
そのまえにはただ岩場があって
人がこのあたりに来ないころから
猿の群れが風に吹かれていたんだろう
この高みから下を見おろしながら
「ねえ、諸君、この高みからひといきに
長良川に跳びこむことはできるのかな」
「ああ、できるとも、やってみせようか」
猿たちはいさましい
息を呑みながら、あくびをしながら
ふりかえりながら、とんぼを切りながら
奈落にむかって、いや奈落のさらに底の
辺土にむかって
リンボーダンス
いっそ水に入ってしまえば
きみも私も鮎さ
占い好きな魚
運命はお天気と苔のパターンにまかせて
鵜に呑まれないよう
気をつけながら泳いでゆけ
左にゆけば平野なるべし
右にゆけば渓流なるべし
おなじ水でもずいぶん
心がちがう
音響が変わる、すると
時代が変わる
霊魂は不滅だというが
そのありかたとして
つねに滅しながらその場に
つねに湧いているとしか思えないこともある
水がつねに新しく流れながら
川としては同一でありつづけることの不思議
そう、思議にあらず
思議してはならない
思議することができない
不思議とは不可思議
不可能だ
(フシギなどという仏教用語を幼児でも
日常的に使うのだからニッポンは末恐ろしい)
流れるものと残るものの対立は
ずいぶん前からぼくの発想を規定していたようだ
こんな短い詩を以前に書いたことがあった

  「逆説」
  文字は残る
  声は消える

  残された文字はもうそれ以上
  姿を変えない

  消えた声は永遠にゆらめいて
  私を聞きとってと
  私たちに呼びかける

いやね、こう書きながらふと思ったのは
「ながら川」と呼ばれる水のその構造なんだ
川はひとつでありつつ
水は不可算で(まことにふかふか不可思議)
詩はひとつでありつつ
個々の詩は並行して存在することも
別個に継起的に書かれることもできる
詩は水の中を泳ぐ水の魚
一瞬ごとに消滅しながら
次の一瞬にはまた生まれている
(だが生まれるとは自動詞? 他動詞?)
そして「瞬」とは単位になりうるのかな
そんな風に時をあたかも羊羹や羊肉のように
切り分けることができるのかしら
時を時として測れないから
詩が生まれる
詩を詩として体験するためには
時が必要だ
時を時としてやりすごしながら
詩を発見する(予感する)
詩を掘りながらまた
時の水に足を浸す
岐阜は「ながら」の聖地
詩はそもそもそれ自体としては
予感することはできても突きとめることができない
詩はただ「ながら」とともにあり
残余すべて亡きがら、だから
詩に夢中になってはいけない
詩はただ一瞬の
一瞥のうちに
読まれ、その残像が
記憶されればそれでいい
料理しながら詩がある
歌いながら詩がある
運動しながら詩がある
慟哭しながら詩がある
授業中にも詩がある
商店にも詩がある
会社にも詩がある
路線バスにも詩がある
詩はすべてながら詩
詩ながら詩
我ながら詩
あらゆる人生のすぐ横を
二本のレールのような一定の間隔をもって
流れているだけだ
そのうち「みんなの森」にやってきた
この不思議な森は波打つ天井で
ヒトの群れを雨風陽光から守ってくれる
半透明のすかし模様の入った
モンゴルの遊牧民の住居のようなかたちの
ドームが発光して文字を守る
城や詩を考えることに疲れた心を
文字の森が休ませてくれることがわかった
Pick-me-upとして濃いコーヒーをもらって
砂糖黍の砂糖をたっぷり入れ
持参した肉桂と唐辛子を入れて
飲む
ニッケ、ニーケー、サモトラケのニケ
涙が滲むほど辛いコーヒー
さあ今日の読書をはじめようか
「一九八二年、七歳の時、
私は映画館で『龍の子太郎』を観た。
おそらく、ソ連の子どもがこうしたアニメを
観ることの意味を現代人が理解するのは
難しいだろう。私は本物の龍を見るより驚いた。
ショックだった。」
(エドゥアルド・ヴェルキン『サハリン島』(河出書房新社、二〇二〇年より)
みごとな回想
よい驚きだ
たちまち図書館が水であふれ
川となり
透明な龍が強烈に体をうねらせ
本がしぶきのように飛び散って
もう収拾がつかない
ぼくはタツノコタロウを知らず
ことばはイメージにむすびつかず
本物の龍ももちろん見たことがなくて
だが「驚いた。ショックだった。」
かれらソ連のこどもたちが驚いたのが
ぼくには衝撃だった
それで頭がぐるぐる回りだした
図書館でありながらここは荒野
岐阜でありながらここはサハリン
姿を変えた森でありながら
すべてはアニメーション
Anima, animus の乱舞
龍の瞬間ごとの出現
翔んでいく
鱗も飛び散り
きみの目に次々と刺さるのだ

岐阜市立中央図書館(ぎふメディアコスモス)、二〇二三年三月二六日、雨