無職になって一か月が経った。
気が抜けた。
気が抜けても腹は減る。
「働かざる者食うべからず」と言うが、働いていなくても腹は減るのだ。
それで思い出した。
「物言わぬは腹ふくるるわざなり」と言うが、あれはおれの座右の銘だった。
おれは不幸なことに脳味噌と口が直結しているので、カイシャにいるときは気に入らないことがあると誰彼構わず吠えて、場合によってはガブリと噛みついていた。コンプライアンスなんて関係ねぇ。コンプラふねふね、追手に帆かけてシュラシュシュシュってなもんだった。
カイシャから追い出されて、いまや物を言う相手はツマしかいない。だが、ツマに言いたいことを言ったら殺害されるので言わない。いや、言えない。ひたすら我慢している。しかし腹はちっとも膨れない。むしろ減る。なのでハラヘッターとめしを食えば、働いていないのでカネも減る。イヤな渡世だ。
思えばおれは「勤労」という意識に欠けていた。勤労が「心身を労して勤めに励むこと」だとしたら、おれは「ウッソー」と言うしかない。そんな感覚はゼロだった。
「シノハラさんにとって、働くとは何ですか」
と、かつて女子高校生記者から訊かれたことがあった。なんでも夏休みの課題で、いろいろな職業のヒトたちにインタヴューしてそれをまとめる、ということだった。
わざわざ編集部まで来てくれたし、オツな答えをキメようかと思ったのだが、脳味噌と口が直結しているおれは言った。
「働くとは、カネが貰えるひまつぶし」
女子高生は固まっていた。難解だったか、と思ったおれは補足した。
「ひまをつぶすにはおカネのかかることが多いでしょ? 映画を観たり、買い物したり、お茶を飲んでもおカネがかかるわけで。一日七時間寝るとしても、残りの十七時間はひまなんだよ。ニンゲンはそのひまをつぶさなければならない。そこでひまをつぶすために楽しいことをシゴトにして働くのさ。でもって働けばおカネも貰える。こんな素晴らしいひまつぶしはないと思うよ」
固まっていた女子高生の表情は、もはや困惑の色を帯びていた。どうやら期待していた答えとは違っていたようだ。
だって本当にそう思っているんだもん、しょうがないじゃん。
少なくともおれは「働く」ことによって社会貢献を果たそうと思ったこともないし、自己成長、自己実現を達成しようとしたこともないし、世界征服を企んだこともない。義務感に駆られて働いたこともないし、党内融和などという身内の論理だけを掲げて総裁選に立候補したこともない。
「働く」とはおれにとってどこまで行っても「カネが貰えるひまつぶし」でしたよ。
で、だいたいだね、「あなたにとって〇〇とは何ですか」という質問がよくない。高校生記者だから説教などしなかったが、この質問はインタヴュアー失格ですよ。音楽家に向かって、
「あなたにとって音楽とは何ですか」
と訊くのは愚問でしょう。同じく小説家に対して、
「あなたにとって小説とは何でしょう」
と訊いたところで返答に困っちゃうと思うな。紋切型は野暮でげす。野暮で下衆。
このような紋切型の質問をどう思うかと、片岡義男さんに訊いたことがある。
「それは簡単だよ」
と、片岡さんは涼しい顔をして言った。
「なんて答えるんですか」
「訊いてごらん」
「あなたにとって小説とは何ですか」
「人生そのものです」
「あなたにとって音楽とは何ですか」
「人生そのものです」
「あなたにとって働くとは何ですか」
「人生そのものです」
「あなたにとって海老フライとは何ですか」
「人生そのものです」
話を戻そう。いや、戻さなければいけない。そう、おれにとって働くことはカネが貰えるひまつぶしだったのだ。
「無責任だ。責任者出てこい!」
と言われても、そうです、無責任なのだから責任者がいるはずもない。これを道理という。違いますか。
だが、いまや状況は変わった。
ひまつぶしをしてカネを貰えていたのに、無職になった途端、ひまつぶしをするとカネが出ていくようになったのである。こういうのをパラダイムシフトと言う。違うか。まあとにかく、ニンゲン、動くとカネがかかるのだ。
「定年後は何か趣味を持ちましょう」
なぁんて御託をよく聞くが、趣味ってカネがかかるのよ。オアシスやレディー・ガガのライヴに当選したらしたで、べらぼうなチケット料金をふんだくられる。
大好きな落語会だって外タレのライヴに比べたら料金は安いが、調子に乗って頻繁に足を運べば、たちまち我が家の竈の蓋が開かなくなってしまう。
時間ができたら聴こう、観ようと思って買いためていた大量のCD BOXセットやDVD BOXだが、もはや封を切るのも面倒くさい。いざ時間ができるようになると、気力のほうが足りなくなってくるのだ。
「ご夫妻で旅行にでも」なぁんて気軽に言ってほしくないね。国内の観光地へ行けば外国人に囲まれるし、海外なんか行ったら円安で昼めし1人1万円ですよ。やだやだ。
「地域のボランティア活動に参加して友人の輪を広げましょう」
なぁんて寝言もよく聞くが、カイシャにいたときだって友だちがいなかったおれがどうして近所のヒトビトと仲良くなれるというのだ。おれは近所でも「感じの悪いヒト」で通っているのだ。そのパブリック・イメージをいまさら覆すわけにはいかない。ボランティア活動って何だ。近所の草むしりかな。おれは膝を痛めてしゃがめないからダメだ。ところで一緒に草むしりをすると友人になれるのか。
カイシャにいたときから「集団で何かをする」ことがとにかく苦手だった。会議も打ち合わせも大嫌い。意見を擦り合わせるとロクなことがないでしょ。だから「プロジェクト・チーム」なんて言葉を聞くと鳥肌が立ったもんね。
アイデアなんて、たった一人のアタマの中で生まれるもの。そのアイデアをかたちにするのはそのヒト一人で最初から最後までやったほうがいい。「プロジェクト・チーム」は、あらかじめ決まっている作業をして、いつまでに納品するかなどには向いているけれど、新しいことをかたちにするのにはまったく向いていないと思いますよ。
おれに言わせれば「会議」や「プロジェクト・チーム」の目的ってぇのは「責任の分散」です。で、結論はいつだって「これでいいか」でしょ。決して「これがいい」ではない。妥協に次ぐ妥協の産物か、優れたアイデアをよってたかってこねくり回して平凡な出来にしてしまうかのどちらか。挙句の果ては「みんなで作ったものだから、うまくいかなかったときはしょうがない」。これって、どーなのさ。
そう、だからおれにとって「地域のボランティア活動に参加して友人の輪を広げる」ことなど不可能に近い。めんどくせぇです。野暮でゲス。
されど、これからは有り余ったひまをつぶさなければならない。
「一日中家にいるのだけはやめてよね」
と、早くもツマはスルドイ牽制球を投げてくる。ひまつぶしもラクじゃない。働かざる者だって腹も減る。あれ、ひまつぶしがひつまぶしに見えてきた。よし、ひまつぶしにひつまぶしを食べに行こうか。あれ、ちょいとググったら六千円だって。よしとこう。イヤな渡世だ。