歩いていると、街角に立っているヒトから声を掛けられることがある。
最近は「客引き行為」に対して取締りが厳しくなっているが、昔は夜の繁華街を歩いていると、数メートルごとに声を掛けられたものだ。オーソドックスなものとしては、
「もう一軒、カラオケいかがですか」
「一時間五千円ポッキリ、飲み放題いかがですか」
などというものがあったが、こちらが驚いてしまうフレーズも耳にした。
「呑みのほう、いかがですか」
初めてそう言われたときは激しく戸惑った。「呑みのほう」という言い回しに、我が左脳が混乱をきたしてしまったのだ。
「呑み」というのは「サケを呑むこと」を意味することはかろうじて理解できたが、その「呑み」に「のほう」を付けることに衝撃を受けたのだ。
「~のほう」という言葉が意味することは何なのか。
「区役所のほうから参りました」
「私のほうからご説明させていただきます」
このへんまでなら、まだ理解の範疇だが、
「コーヒーのほう、お持ちいたしました」
あたりになってくると、おれのアタマは反乱を起こす。
「コーヒーのほう、ということはコーヒーそのものではなく、コーヒーのようなもの、もしくはコーヒー方面の何かをお持ちいたしました、ということなのだろうか。だいたいコーヒー方面って何なのさ。コーヒーに方角があるのか」
と、考え込んでしまう。そして話はモンダイのひと言に戻る。
「呑みのほう、いかがですか」
これはじつに曖昧ではないか。日本語として成立していない。
「お帰り前にもう一杯だけお呑みになりませんか」
と、なぜ言わないのだろう。待てよ、「呑みのほう」ということは、「呑み」だけではなく、その周辺のことを含ませているのだろうか。では「その周辺」とは何か。ドレスを着たおねえさんが隣についてくれたり、そのおねえさんが頼みもしないのにフルーツの盛り合わせを出してくれたり、「シャンパン開けましょうよ」と言ったりする、そのあたりのことを「のほう」で表現しているのであろうか。だとしたら警戒しなければならない。そもそもおれはサケが一滴も呑めないから「呑み」も「呑みのほう」にも引き寄せられることはないのだけれど。
もっと驚いた声掛けがあった。夜も更けてきた六本木交差点を歩いていたら、突然おにいさんが近づいてきて、おれの耳元でこう言った。
「おっぱい」
耳を疑った。見事な体言止めだ。「おっぱい」、そのひと言だった。これ以上ミニマムなフレーズがあるだろうか。インパクト抜群だ。おっぱいがどうしたというのだろうか。おっぱいをどうするというのだろうか。おれは狼狽しながらも考えた。ここは六本木の深夜だ。風俗店も多い。
「おっぱい触り放題ですよ。いかがですか」
というような意味なのだろうな、と推理はしたが、それにしても省略が激しすぎる。もう少し詳細に主語、述語、目的語を述べてほしいところだが、目的語は「おっぱい」だと思われ、残りの主語と述語を述べられても困るだけなので、おれは無視して歩を進めた。
「なぜおれに声を掛けるのだ」
というケースも多い。家の近所を散歩していたときだ。おれの身なりは近所ということもあり、それはひどいものだった。寝巻き代わりにしているスウェットの上下にサンダルをつっかけてフラフラと歩いていると、スーツ姿の若者が、
「ご検討、いかがでしょうか」
の声とともに億ションのパンフレットを手渡そうとする。どう見てもおれの格好は「億ションの購入を検討しているエグゼクティヴな紳士」には見えない。競輪、競馬、パチンコなどで食いつぶしたおじさんだ。営業センスのかけらもないではないか。おれは無言で通り過ぎた。
「よろしくお願いしまーす」
いや、正確に書き起こすと、
「よろしくおねしゃーす」
と言われて、若い女性からポケット・ティッシュを手渡されたこともあった。ティッシュを見てみると、美容院というかヘア・サロンというか、つまりはそのテの店がオープンしたことを告知していた。おれは完全なハゲアタマである。スキン・ヘッドなどと言うとそれらしく聞こえるが、つまりはハゲアタマだ。そんなハゲおやじに美容院のティッシュを配ることほど無駄な行為はない。これも営業センスが著しく欠如しているではないか。
同じポケット・ティッシュ配りでも感心したことがある。大学生と思しきおにいさんがおれにティッシュを渡そうとする直前にこう言ったのだ。
「花粉症はございませんか。どうぞー」
おれは重度の花粉症である。思わず「どうも」と応えて、ティッシュを受け取った。見るとカラオケ・ボックスの告知だった。カラオケ・ボックスに興味はないが、素晴らしいセールス・トークではないか。あのおにいさんはおそらくアルバイトなのだろうが、将来はどの世界でも成功する優秀なビジネスマンになるだろう。ティッシュ配りにもクリエイティビティが必要なのだ。
つい先日には制服姿の警察官から声を掛けられた。おれにしては精一杯のお洒落をして歩いていたときだった。
「ちょっとよろしいでしょうか」
ああ、また職務質問かよと、おれはゲンナリした。以前にも書いたが、おれは職務質問の常連、上顧客、お得意様、年間契約者、終身名誉顧問なのだ。
「なんでしょうか」
おれは思いきり不機嫌な顔をして、警官と向き合った。
「このようなものをお配りしております。宜しくお願い申し上げます」
拍子抜けしたおれに手渡されたのは「高齢者のための交通安全読本・安全毎日いきいき東京」という小冊子、それにピーポくんのポケット・ティッシュだった。小冊子の表紙を見ると、ニコニコ顔のおじいさんが運転しているクルマが横断歩道で一時停止して、おばあさんが同じくニコニコ顔で手を挙げながらその横断歩道を渡っている様子がイラストで描かれていた。年配のヒトビトを見かけたら配っているものに間違いない。そうか、おれはいくらお洒落をしたところで、どこからどう見ても高齢者に見えるのだなと自覚したら、それはそれでゲンナリした。
声は掛けないでもらいたい。どうかそっとしておいてほしい。