ツマと結婚して、およそ四十年になる。
「ツマ」と表記する理由だが、「妻」と漢字で書くのは何だか照れくさいからだ。奴はそんなに立派なもんじゃないだろう、という気がする。かといって「嫁」「奥さん」「家内」「女房」は、もはや女性蔑視語でよくないらしい。「カミさん」なら問題ないのだろうが、あまりしっくりこない。「カーチャン」だと、母親のようでこれもダメだ。
「サンカミ」「チャンカー」とひっくり返せばいいとも思うが、
「昨日、サンカミにはショナイでチャンネーとミーノして、テルホでリーヤしちゃった」
のようなギョーカイ臭が漂う。やはり文章で使うときは「ツマ」なのだ。
ツマはすぐ怒る。いつもおれは怒鳴られ、そのたびにおれは「ごめんなさい」と謝るのだが、
「謝れば済むと思っているでしょ! いつもそうでしょ。同じことで何回謝っているのよ。謝る前にそういうことをしないで!」
と、さらに怒りに油を注いでしまう。だがおれはツマの言う「そういうこと」の内容をすぐ忘れてしまうので、ツマはそのたびにおれを罵倒する。毎日の暮らしの至る所に地雷が仕掛けられていて、おれはそのなかをビクビクしながら匍匐前進しているような気分だ。だが、忘れっぽいおれはすぐ地雷を踏むことになる。よし、いい機会なので、「地雷」の内容を必死に思い出して、ここに書いておこう。以下はおれがツマに怒られるケースの一部だ。
・部屋の灯りを付けっぱなし
・食卓に要冷蔵のドレッシングなどを置きっぱなし
・外出時にエアコンを付けっぱなし
・下着類を洗面室に脱ぎっぱなし
こう列挙していくと、我が地雷は「っぱなし」方面が圧倒的に多いのがよくわかるが、ほかにもまだある。
・忘れ物をする
・どこに何をしまったのか分からなくなる
・内緒で異性とデートする
・高額なモノを無断で購入する
・食べ物を床にこぼす。特に煎餅、ポテト・チップスの細かい破片
・クルマの運転が荒い
・日常の発言に優しさが欠如している
・以上のようなことを指摘、注意されると、すぐ嫌な顔になる
まだまだたくさんあるような気がするが、忘れた。ゆえにツマは今日も、
「アタシの言っていることなんて聞いてもいないんでしょ!」
と逆上することになる。すまねぇ。
ツマの思考回路はユニークだ。先日も落語会を一緒に聴くために、大手町の日経ホールで待ち合わせることにした。ツマは家から、おれは会社から出発して、日経ホールの座席で落ち合おうという手筈だ。すると当日、開演時刻の一時間も前に、まだ会社にいるおれにツマからの携帯メールが入った。
「ニッケイビルとサンケイビルは違うの?」
おれは短い文面を見て驚いた。どうやらツマは大手町で道に迷っているらしいことが分かったが、この質問はどういうことなのだろう。ニッケイビルとサンケイビルは別の建物に決まっているではないか。大丈夫か。喩えて言うのなら、
「リンゴとミカンは違うの?」
に近い質問である。おれは面白がって、
「サンケイビルは右寄りです。ニッケイビルは比較的真ん中です。ちなみに左に向かうと朝日ホールがあります」
と返信しようと思ったが、さらに混乱しそうなので、ちゃんと地図を添えてメールを返した。
そういうツマなのだが、たまにTVのクイズ番組を一緒に観ていて、おれが間違った答えを口走ると、ここぞとばかり非難してくる。
「知ったかぶりをしないで!」「バッカじゃない!」「そんなわけないじゃん」
ところが正解のときは褒めてもくれない。黙りこくったままである。
「合ってた」
と、おそるおそるおれがアピールを試みると、
「私も知ってた」
と、TV画面を向いたまま冷たく呟く。徹底した塩対応なのだ。極めて遺憾である。
ツマとおれは趣味が合わない。
おれはボブ・ディランが大好きだが、ツマはあり得ないほどに嫌悪している。クルマの中でディランの曲を流すと、すぐさま停止させてしまう。
「ガマガエルのような声で、メロディーがない」
そう言うのだが、当たらずとも遠からずなのでおれは何も言えない。ちなみにツマの推しはKing & PrinceとNumber_iだ。両方のファン・クラブにも入会している。
「孫のように可愛い」
と言って、誕生日になるとメンバーから届くヴィディオ・メッセージに狂喜している。アイドルの彼らはスマートフォンの画面から問いかける。
「お誕生日、おめでとう! 何歳になったのかな?」
ツマはニッコリして、
「六十五さーい!」
と、画面に向かって応えている。もしメンバーたちが直接見たらドン引きするだろう。
おれは映画『男はつらいよ』シリーズを好んで視聴するが、妻は拒否反応を示す。おれも妻も葛飾柴又のすぐ近くで生まれ育った身である。おれなどは映画の冒頭に、あのテーマ曲のイントロが流れ、江戸川の土手が映し出されるだけで鳥肌が立つ。それなのに妻は、
「またこれを観るの?」
と、不満を口にする。なぜそんなに『男はつらいよ』を嫌悪するのか、その理由を訊いたところ、こう言った。
「寅さんも周りの人もみんないい人ばかりでしょ。悪人が一人も出てこない。善人だらけなのに、いつも結末は切ない。だから観ていてつらい」
だから「つらいよ」なのではないかと反論したくなったが、そうするとその後は「おれはつらいよ」になるのでやめておいた。
ツマはコストコが大好きだ。コストコとは、Costcoであり、コストコ・ホールセール。そう、あの会員制の巨大な倉庫式スーパー・マーケットだ。
「コストコなら一日中いられる」
そうツマは言うのだが、おれはまっぴらごめんである。何が楽しいのかまったく分からない。だが、ツマは運転免許を持っていないので、おれが運転手となり、コストコの駐車場へと続く列に延々と並ばされる。クルマは遅々として進まない。
「ああ、今日も駐車行列だな」
と、ハンドルを握りながら呟くと、ツマは途端に不機嫌になる。
「なんでそんなことを厭味ったらしく言うのよ? じゃあ、もうアンタとは絶対に一緒に来ない!」
それでは誰と行くのかと思うのだが、おれはじっと耐えて言葉を繕う。
「いや、そういう意味で言ったわけじゃないよ。ごめんなさい」
ようやく駐車場に辿り着き、クルマを停めると買い物に付き合わされることになる。おれはカークランドのトイレット・ペーパーやらキッチン・ペーパーやらに、まったく興味がない。リンツ・リンドールのゴールド・アソートもウォーカーズのクッキーもどうでもいい。混雑している倉庫内で、人波を縫うようにして巨大なカートをズルズルと押しているのが苦痛でならない。ツマは一人で商品を選び、次から次へとカートに載せていく。
買い物が終われば大量の収穫品をクルマに積むのも骨が折れるが、家へ帰れば再び大荷物をクルマから運び出さなければならない。何回もクルマと室内を往復する羽目になるのだが、少しでも嫌な顔をしようものなら、ツマはまた総攻撃を仕掛けてくる。
だが、おれはツマのことを心底憎めないでいる。彼女にはいいところもたくさんあるのだ。おれはその証拠として、これからツマの長所をひとつひとつ丁寧に列挙しようと思う。
思い浮かばないのでやめた。