携帯電話は携帯しましょう

篠原恒木

おれはその日、携帯電話を家に置き忘れて出社してしまった。
携帯電話はふたつ所有している。
ひとつは社用の電話で、会社から支給されている白いボディのものだ。もうひとつは私用、つまりはプライヴェートで使っている電話だ。こちらは本体が赤い。家に忘れてきたものは、赤いボディの私用電話だった。

忘れてきたのを気付かされたのは、妻からのメールだ。社用の携帯電話にそのメールは届いた。
「赤い携帯を忘れていますよ~」
と、短いメールが入っていたのだ。おれはこの短い文面に妻の残忍性を感じた。
「赤い携帯を忘れていますよ」
でいいではないか。「よ」のあとの「~」という一文字に、嘲笑、揶揄、冷笑、嘲弄、侮蔑の匂いをおれは鋭く嗅ぎ取った。おまけに「~」のあとには「歯をむき出しにして笑っている黄色い顔文字」が一個添えてあるではないか。これには陰険、剣呑、愚弄、失笑といったニュアンスが込められている。これにはさすがのおれも嫌な気分になった。

嫌な気分はそれだけではない。自宅に置き忘れたのが私用の携帯電話だったことに、おれは懸念を覚えた。私用の電話でかかってくるのは、プライヴェートな関係のヒトビトだ。電話が鳴ったら、かけたヒトの名前がディスプレイに浮かび上がるではないか。それを妻に見られたら些かマズイことになる。おれはしばらく考えた挙句、妻に電話をかけた。
「メールを見ました。連絡をありがとう。どこに置いてあった?」
「居間のソファの上」
「ありゃあ、そうか。しまったなあ」
ここでおれは再び考えた。普段はあまり物事を考えないおれだが、こういうときは考えるのである。
「電話が鳴るとうるさいだろうから、おれの部屋に置いてドアを閉めておいてよ」
と言おうとしたが、これはよくない提案だとおれは考え直して、その言葉を飲み込んだ。このようにお願いすれば、
「ツマに知られると都合の悪いヒトから電話がかかってくるのを隠したがっているオット」という構図が完成してしまうのではないだろうか。さらには、
「おれの私用電話が鳴ったとき、わざわざそのディスプレイを確認するであろうという、油断のならないツマ」
と、彼女のことを決めつけていると解釈されかねない。以上を0.7秒かけて考えたおれは平静を装って口を開いた。
「失礼しました。しょうがないね」
妻はオウム返しに応えた。
「しょうがないね。気を付けないとね」

電話を切ったおれは考えた。普段はまったくヒトの言葉尻など考えないおれだが、こういうときだけは深く深く考えるのであった。
最後の妻の言葉「気を付けないとね」とは、どういう意味なのだろう。
「忘れ物をしないように気を付けないとね」
という、至極単純な意見、説諭、感想なのだろうか。いや、あるいは、
「こういうフトしたことで、アタシに知られたくないことを知られてしまうことだってあるんだから、気を付けないとね。ぐふふふ」
という脅迫、牽制、警告なのかもしれない。そこまで考えて、おれは激しく動揺した。
「今日はできるだけ早く帰ろう。あらゆる危険を回避するにはそれしかない」
そう思ったが、間の悪いことに、その日は夜に予定が入っていた。もうこれは腹をくくるしかない、と思ったが、自宅のソファの上で携帯電話が鳴り、そのディスプレイに、
「ミーコちゃん」(仮名)
「リサちゃん」(あくまで仮名)
「モエちゃん」(しつこいけど仮名)
などという文字が大きく浮かび上がる光景、そしてそのディスプレイを凝視するツマの形相がちらつき、昼が過ぎ、夜になっても不安におののいていた。

その日の夜は会食が長引き、午後十一時三十分にようやくお開きとなった。一人になったおれは、ツマに「今から帰ります」という旨の電話をビクビクしながらかけた。電話に出た彼女はあり得ないほどの不機嫌な声でまくし立ててきた。
「もう寝るから、そっと鍵を開けて入って来てください。明日の朝は自分で目覚まし時計をかけて勝手に起きてください」
おれが「わかりました」と言う前に、一方的に電話は切れた。ここに至って、おれは最悪の事態を覚悟した。ミーコちゃん、リサちゃん、もしくはモエちゃん(すべて仮名)のうち誰かから電話がかかってきて、我が妻はその名前が浮かび上がった携帯電話のディスプレイを見たに違いない。まったくもう、ミーコ、リサ、およびモエはなぜLINEではなく、電話をしてきたのだ。LINEでいいではないか。だが、おれはLINEへの反応がきわめて遅い。気付くとLINEのアイコン上に「12」などという件数が表示されていることもしばしばだ。
「なぜいつまでも既読にならないの?」
「シノハラさんにはLINEを送るより、伝書鳩を飛ばしたほうが早い」
「いや、いっそ狼煙のほうが気づくかもね」
といった皮肉、不満、苦情を受けることも多いのだ。だからミーコ、リサ、モエ、ユカ(一人増えているけれど、すべて仮名)は電話という手段を取ったのだろう。そのときツマは咄嗟に名前を見てしまったのだ。あの徹底的に不機嫌な声はそのせいだ。迂闊であった。ディスプレイに浮かぶ「ミーコちゃん」などという文字ヅラはじつに間抜けではないか。
電話番号を登録するときに偽名を打ち込めばよかったのだ。「ミーコちゃん」は「マイナカード窓口」、「リサちゃん」は「ゆうパック集荷申し込み先」、「モエちゃん」は「運転免許証更新センター」、「ユカちゃん」は「内閣総理大臣秘書官」とでも打ち換えておけば何の問題もなかったはずである。だが悲しいことに、おれにはそれほどの「マメさ」がない。隠し事はするが、嘘はつけないという、たいそうリッパなオトコなのだ。

家への帰り道は憂鬱だった。おれは妻に気付かれないようにそっと玄関の鍵を開け、明かりもつけずに自室に直行した。赤い私用の携帯電話はおれの部屋にはなかった。ということは、いまだに居間のソファの上に放置されているか、あるいはすでに当局によって押収されているのかもしれない。おれは居間に足を踏み入れようとしたが、ドアを開けるときの音で妻が彼女の寝室から出て来る恐れがあるので自重した。午前零時過ぎから軍事大国による集中爆撃は浴びたくない。それに、ソファに置いてあるかもしれない携帯電話のディスプレイをいま見て、そこに浮かび上がった不在着信履歴の名前をチェックしたところでいったい何になるというのだ。恐怖と不安の一夜を過ごすことになるだけではないか。おれは自室から動かずに、精神安定剤と睡眠導入剤を服用して、
「もうどうだっていいやぁ。すべては明日だ」
と開き直って布団をかぶった。妻の寝室は静かだった。寝ているのか起きているのかも分からなかった。

翌朝、自分でセットした目覚まし時計の音で目が覚めたおれは、おそるおそる居間へ入った。妻はいなかった。我が愛犬、サブ(これは本名)もいない。早朝の散歩に出かけたと判断したおれは、ソファに置きっぱなしにされている赤い携帯電話を発見した。心臓が早鐘を打っている。マッハのスピードでディスプレイを確認すると、電話の不在着信はゼロ、LINEの着信もゼロ。メール着信もゼロで、画面はきれいなものだった。おれは心の底から安堵したが、それと同時に、おれは自分が思っているほど世のヒトビトから必要とされていないという事実を思い知らされた。自意識過剰というやつである。
では、昨夜の電話における妻の異常な不機嫌な発言は何だったのか。それには大きな疑問が残る。昨日、おれが不在のあいだに何かが起こったに違いない。それは何だ。別件で新たな物的証拠が発見されたのだろうか。いや、そんなはずはない。おれは疑心暗鬼になった。人生は、ひとつ悩みが消えると、すぐ別の悩みが頭をもたげてくる。

やがて妻がサブを連れて帰宅したが、相変わらず彼女は不愛想で取り付く島がない。静かだが、あからさまな嫌悪感をおれに抱いている。結婚生活三十八年間の経験則から、おれはこういうときに絶対に口にしてはいけない言葉を学習している。それは、
「何を怒っているの?」
というひと言である。この言葉を発して事態が良化したことはただの一度もない。したがっておれは無言のまま身支度をした。このとき大切なのは、おれまで不機嫌そうな態度を取ってはいけないということだ。あくまでさりげなく、「おれはフツーだよ。普段と変わらないよ」という素振りを貫かなければならない。もちろん二台の携帯電話はバッグの中に入れて、家を出た。
妻の機嫌は日を追うごとに良化し、五日後には平常の冷たさに戻った。冷たいことに変わりはないが、それはいつものことだ。一応は安堵の日々が続いているが、おれはあの夜の異常な不機嫌さについて、妻にその理由を訊いていない。時限爆弾の導火線の火が途中で消えたのに、また火をつけることほど愚かなことはないからだ。

そして俺の赤い私用携帯電話は、あの日からずっと電話もLINEもメールも受信していない。ミーコ、リサ、モエ、ユカ、ヒトミ(また一人増えているけれど、すべて仮名)も冷たいではないか。おれはいま、私用携帯電話の解約を真剣に検討している。