減るのが怖い

篠原恒木

クルマを運転していてガソリンが減ると不安になる。ガソリン・メーターの針が半分の目盛りを指すようになると、もういけない。そわそわしてしまう。
「ガソリン・スタンドを探さないと」
と、おれは激しく狼狽してしまう。半分残っていればまだじゅうぶんな距離を走れるということは、おれの明晰な頭脳では理解している。そんなに慌てなくても大丈夫なのだが、常に「ほぼ満タン」という状態を維持していないと、どうにも気持ちが悪いのだ。
ごくたまにほかのことに気を取られていてふとメーターの針を見ると、あとわずかでガス欠になるようなときがある。「ポーン」とアラーム音が鳴り、「走行可能距離・あと30キロメートル」などという表示が出る。こうなるとおれの心臓は早鐘を打つ。冷静に考えれば30キロメートルのあいだにガソリン・スタンドは星の数ほどあるのに、おれはパニック状態になってしまう。これは性分だから仕方がない。

PASMOの残額も異常に気になる。5千円を切るともうダメだ。ドキドキしてしまう。5千円もあったら御の字だとアタマでは思うのだが、おれはとても心配になる。
電車の改札口でPASMOをかざすと、見たくなくてもすぐ前のヒトの残額が見えてしまうでしょう。あれもおれの不安を助長する原因のひとつだと感じている。たとえばおれの前に改札でPASMOをかざしたヒトが見目麗しい女性だったとしよう。その美女のPASMOの残高が「163円」などと表示されるのを見てしまったら、おれは心底ガッカリしてしまうのだ。
「こんなに美貌に恵まれているのに163円とは」
と、残念でたまらなくなる。したがって根が見栄坊に出来ているおれは、自分のPASMOの残高が仮に124円であることを後ろの美女に目撃されたら、
「あら、このおじさん、可哀想に、貧乏なのね。この人ならお付き合いしてあげてもいいと思っていたのに、サイテー」
と思われてしまうに違いないと考えているのだろう。見ず知らずの美女がおれのことを「お付き合いしてもいい」と思うはずがないのは、このさい置いておこう。いまはそれが論点ではない。だが、我がPASMOに1万5千円ほど常に備蓄されていれば、おれの後ろを通った美女も、
「まあ、さすがは余裕のある大人の男は違うわね。よく見たらパス・ケースもボッテガ・ヴェネタだわ。後ろ姿もうっとりしちゃうわ、うふ」
となるに違いない。見ず知らずの美女が、たかがPASMOの残高でうっとりするわけがないという事実はこのさい脇にどけておこう。繰り返すがいまはそれが論点ではないのだ。とにかくおれはPASMOの残高が気なって仕方がない。したがってとにかくこまめにチャージするのだが、そのたびに大いなる安心感を手に入れることができる。これも性分なので仕方がない。

携帯電話のバッテリー残量が気になる。ディスプレイの右上に電池のようなマークがあって、100%充電されていると電池マークは真っ黒になっているが、次第に黒い部分が減っていく。これがたまらなく嫌だ。ごくたまにメールなどをたくさん送ったり、複数のヒトビトと長電話をしたりすると、いきなり画面に「バッテリー残量が少なくなっています」「バッテリー残量はあと20%です」などとアラート表示が浮かび上がる。こうなるとおれの心臓は止まりそうになる。よく考えれば時刻はもう午前零時、これからメールや電話をするような緊急性のある案件はおれにはないのだから、あとはラーメンをズルズルと食って家にトボトボと帰ればいいだけだ。好きなあのコから、
「私と奥さんのどっちを選ぶの」
などといった、長丁場になりそうな電話も残念ながらかかってこない。つまりはバッテリー残量がわずかでも、何の問題もないのだ。しかしおれは何とかしていますぐこの電池マークを真っ黒にしたいという欲求から逃れられない。
おれにとって携帯電話のバッテリーは常に100%から90%が望ましい。バッテリー残量が半分ほどになると、切迫感で押しつぶされそうになってくる。まことにもって厄介なのだが、これも性分なので仕方がないと思うほかない。

おれの手帳は、肉眼では判読不可能なほどの細かい文字でびっしりと埋め尽くされている。その日にすること、したことを克明に書き込んでいくと自然にそうなってしまう。だから初めておれの手帳を目にしたヒトは例外なくヒルむ。
「何をそんなに書くことがあるわけ?」
と、必ず質問されるが、おれは曖昧に薄ら笑いを浮かべるだけだ。自分でもなぜこんなに書き込むのだろうと思うのだが、おそらくは手帳に余白があると我が人生に欠落感が生じてしまうような気がしてならないのだろう。だからおれは今日も細かい字で手帳の余白を埋めていく。この隙間のないスペースが「今日も一日頑張ったおれ」を表現してくれる唯一の物的証拠なのだ。カタルシスなのだ。そのかわり、狭くなっている土・日曜日の欄には何も書かない。ジムに行こうがライヴに行こうが妻と罵り合いになろうが、そのことは書き込まない。こうすることによって俺の手帳は「文字の密集地帯」と「真っ白な空白地帯」とで鮮やかなコントラストが出来上がる。この対比がたまらない。月曜日から金曜日までは蟻のような、いや蚤のような小さな文字でびっしりと埋まっていないと気が済まない。これも性分だ。仕方がない。

十年ほど前に軽い不眠症になった。そのときにおれがいちばん人生で怖いのは「眠れないこと」だということが明らかになった。以来、心療内科で睡眠薬と精神安定剤を処方してもらい、いまも毎晩クスリの力を借りて眠っている。クスリを飲めば、十五分後にはハンマーで殴られたような深い眠りに落ちることができる。心療内科には一か月に一回通っているのだが、次の診療日まであと数日、という時期になると、当たり前だが残りのクスリが少なくなる。「診療日まであと三日」という段階になると、睡眠薬も精神安定剤もそれぞれ「残り二錠」という状況になるわけだが、これがおれにとってはオソロシイ。
「どうしよう。あと二錠しかない」
と不安になってしまうのだが、よく考えれば次の診療日まではクスリはきちんと残っているのだ。用法、用量を正しく守って服用しているに過ぎない。大丈夫だ。しかしおれの気持ちは収まらない。困ったものだ。
おれは睡眠薬と精神安定剤がないと絶対に眠れないカラダになってしまったかというと、そうでもなくて、ときどきクスリを飲むのを忘れて寝床に入り、ウトウトしていると、突然おれのアタマに閃光が走る。
「いけない! クスリを飲むのを忘れた!」
もう少しで眠りにつくところを、おれはガバッと起き出し、慌ててクスリを飲み、再び布団をかぶる。自分でもこの行動は謎だが、これも性分で仕方がない。

煙草が切れるのも恐怖だ。そんなに一度に何本も吸うわけがないのだが、常にワン・カートンの買い置きがないと心が落ち着かない。オイル・ライターのオイル切れも許せない。スケルトンのボディをしたペンのインクがあと残りわずかになると、いてもたってもいられなくなる。とにかくあらゆるものが減るのが怖いのだ。

こんなおれなのだが、ただひとつ、減っても諦めがつくものがある。普通預金の残高だ。ATMで現金を引き落とすたびに我がなけなしのかねはどんどん減っていくが、こればかりは増やそうと思ってもどうにもならない。なぜかおれはかねには無頓着で、気がつくとオノレの財布に残った中身は小学生のお小遣いより少なくなっていることがよくある。おれは力なくATMに向かい、かねを引き落とすが、ディスプレイに映る残り少ない残高を見ても、逆上はしない。「もののあはれ」を感じるだけだ。いわゆる無常観に裏打ちされた哀愁である。だが、かね以外のものが減るのは怖い。恐ろしい。胸が張り裂けそうになる。こんなおれだが、最後にひとつだけ言っておきたいことがある。
「おまえが減って怖いものは、みんなかねで買えるものだろうが」
という指摘だけは絶対に受け付けない。