製本かい摘みましては(177)

四釜裕子

古書ほうろうの入り口近くで見るからにぬくぬくしていた八巻美恵さんの『水牛のように』を買った。「水牛」で折々に読んできたけれども、まとまった姿を手のひらにのせられるのはやっぱりうれしい。〈電車ではない愉快なことがバスでは起こる〉のに似て、検索してヒットするのではない愉快な言葉が本のページをめくったほうが見えてきたり見つかることはあるもので、あるいは見つかるのを待っていたかと思わせるようなものも現れたりして、『水牛のように』も、本で読むとそういうことがもれなく起こる。

検索してヒットするよりページをめくって見つけたほうが愉快になるのは、地名も同じ。なんといっても、地図帳で線路とか川とか等高線を指でなぞりながら地名をつらつら眺めるのは飽きない遊びだ。目的地があって調べるのはおもしろみに欠ける。出かけた後に地図でなぞるのを「復習」と呼んでいるが、それで後悔したりするのがまたいいのだ。「無人島に一冊だけ持って行くならどんな本?」という謎のアンケートに「地図帳」と答えたことがあったけど、あのとき質問者は地図帳を本と認めてくれたのだったかどうか。まあ、今聞かれたらまた同じ答えを言うけれど。

印刷博物館で「地図と印刷」展を見た。まず、ちょっとわかりにくいので図録からそのまま引用すると、〈日本図で最初の印刷地図と目されるのは、中世に編まれた『拾芥抄』に付されていた日本図が印刷本となったときに図版として挿入されたもの〉だそうである。すなわちそれは中世的で「行基図」と呼ばれるタイプらしく、地域の名をぶどうの房のようにくくった線が、山城を中心にしてもくもくと広がっている。この「ぶどうの房感」はよくわかる。子どもの頃、隣の地区、さらに隣の地区……と広がっていく遊び場を描くとこんな感じになったもの。

17~18世紀になると、菱川師宣の弟子の石川流宣が〈江戸を拠点とする人びと〉に向けて作った地図が人気になったそうだ。浮世絵師である作者の名前が付されて、地図というより絵図として90年ものあいだ売れ続けたようだ。デフォルメの技が冴え、単色刷りに重ねた塗り色も美しい。地図としての正確さを追うことはなく、距離や駄賃が書き込まれ、一宮や城などの観光スポットも細かな文字で記されている。江戸の人たちはこれをどんなつもりで見ていたのだろう。折りたたまれた紙を床に広げてみんなで囲んで、やっぱり指でなぞりながら、暮らす町から隣町、さらに隣へと、その先を頭に描いていたんだろうか。

18世紀も後半になるといわゆる名所図会が各地で作られるようになる。『都名所図会』(1780)の凡例には〈幼童の輩、坐して古蹟の勝地を見る事を肝要とす〉とあり、子どもたちにもわかるようにより正確な挿絵が求められたようだ。同じ頃、常陸国の長久保赤水(1717-1801)が、およそ20年間集めてきた日本各地の地理的情報を駆使して「改正日本輿地路程全図」を完成(1779)させ、大坂で刊行(1780)している。日本人が出版した地図としては初めて経緯線が引かれたのだそうだ。とはいえ、〈経度については、18世紀の当時にあって、算定法が未確定であって未記入であるのは当然〉と図録にある。

伊能忠敬(1745-1818)が測量の旅に出るのは1800年、そのおよそ20年前のことなのだ。印刷博物館の展示室までの通路には、忠敬の歩幅に合わせた足跡があった。その幅、69cm。踏んでみたらこれが結構広かった。身長は160cmくらいというから私とほぼ同じなんだけど、はてと思い、アイフォンのアプリで歩幅記録を見てみたら、36-101cm、平均58cmと出ていた。短いな。それにしても101cmって? 詳しく見ると、去年の6月、101cmの大きな一歩が記録されていた。何があった、自分。

長久保赤水は、実測ではなく、とにかく多くの書物や記録を調べ、旅人の見聞なども細かに取材し、それらを総合して齟齬を埋めて一枚にまとめあげたということらしい。「行基図」も「流宣日本図」も、見ると移動者の視線や動線が体感されるのに対して、「赤水図」は視点が高く一つでいわゆる今の地図に近い。これが実測によって描かれたのではなくて、曖昧なところは、複数の人間がそれぞれ記憶していた土地の印象を聞き集め、その辻褄を合わせて求めたぎりぎりの境界線を描いて埋めたということ、しかもそれが結果的にホンモノに近く仕上がっていることになんだか驚いた。どれだけたくさんの声を偏らずに聞きとろうと努めたことかと思うし、質問のしかたによっぽど何かコツがあったのではないかと想像してしまう。

長久保赤水とはどんな人だったのか。赤水の生誕地、高萩市の歴史民俗資料館の動画サイトにその伝記ドラマがあった。同館所蔵の、改正日本輿地路程全図の原画も出ていて、朱字、胡粉や和紙、付箋などで修正されているようすがわかった。中に、書き足した「白岩」の文字を見つけた。私の実家のある地域の川の対岸の現存する地名だ。最上川に寒河江川が合流するあたりから西への一帯を、まとめて書き直しているようだ。赤水は1760年に東北を旅しているから、この辺りもそのときに歩いたのだろうか。集めた情報では辻褄が合わなくて納得がいかず、足を運んで確認したのかもしれない。寒河江川にかかる臥龍橋を、たぶん渡っているはずだ。どこに宿を得たのだろう。

赤水が東北の旅を記録した「東奥紀行」(1792)というのがあるらしい。検索したら複数のデジタルアーカイブにヒットした。出羽三山と鳥海山に行っていることは絵があったのですぐにわかった。ありがたい。あとでじっくり見てみよう。