書いて書いて、書いた年だった。
普段は黒子として仕事をしているが、昔から「聞き書き」というスタイルが好きで、自ら苦労を買って出てしまうところがある。インタビューを投げて答えが返ってくる、そのやりとりを積み重ねることで立ち上がってくる輪郭に、驚きながらどうも魅惑されてしまうのだろう。まだ見たことのない景色のただ中にいるという実感が、たとえ勘違いであっても降りてくる瞬間のかけがえのなさ。五感を研ぎ澄ませて、こちらが全身耳であるような無私になった時に、まざまざと感じられる手応え。そのあと文字起こしをして、まとめ直してみるという気の遠くなりそうな作業が待ち構えていることがわかっていても、まだ見ぬ何かを形にするぞという熱が不思議とこもる。むしろテープ起こしだって編集しながら書いていることに他ならないのだし、さらに1冊という本の尺にボイスを乗せていくことはさらに文学的な何かを紡いでいることにも等しいじゃないかと熱がこもる。舞台に立つ役者や演奏をする音楽家たちはこのずっと何倍も濃密で張り詰めた緊張感の中にあるのだろうと、ふっと想像をしてみたりする。
思えばスヴェトラーナ=アレクシェービチの仕事も聞き書きだった。ベラルーシという地政学的にはソ連のお膝元で、ソ連崩壊や巨大なものが壊れゆく過程でこぼれ落ちてゆく声を拾って集める尊い仕事を重ねているアレクシェービチ。ノーベル文学賞を受賞した時には驚いたものだったが、まさに「耳をすませる」仕事に他ならない。人の声に耳をすませて、聴いた声の数々を自身の身体を一回通過させた後に紡いでいる話ひとつひとつは、フィクションとは違う、でもノンフィクション的な強い事実の切り取りをする姿勢とは遠く離れたもっと密やかな祈りにも似たものだ、という感触が残る。チェルノブイリの原発事故に遭遇した人たちの声を拾った『チェルノブイリの祈り』は、絶望と祈りと戸惑いに満ち溢れていて、聞き書きによってなされた文学的な仕事の到達点だと思うけれども、はるかその仕事には程遠くとも、音楽を奏でるように身体を使って聴きながら書くような「聞き書き」の仕事に、とりわけ尊さを感じる。大きな仕事を終えた年の瀬にまた、新たにまた「聞き書き」の仕事を始めてしまいそうなのも、我ながらという感じである。