ジョージアとかグルジアとか紀行(その3)無言を語る国

足立真穂

澄み切った空と強い太陽の照り返し。
木陰に座りこちらをじっと見つめる老女、
そして、この世のものとは思えない白い衣を羽織った聖女のごとき乙女……。

前回のワインからは少し離れるが、この年末に見たジョージア映画について書いておきたい。とんでもないものを見てしまって、腰が抜けたままだ。

見たのは、ジョージアの小津安二郎か黒澤明か、という国民的映画監督、テンギズ・アブラゼ(1924〜1994)による作品だ。『祈り』(1967年)、『希望の樹』(1976年)、『懺悔』(1984年)の三作をまとめて「祈り」三部作と呼ばれる。この監督には他にも作品があるが、それぞれの作品の描く時代の心象風景を、痛いほどにえぐり出すこの三作品がジョージアの精神を表していることから、選びこう称されることが多いようだ。

ジョージアの現代史を把握しておくのが理解の近道だろう。
北は5000メートル級のコーカサス山脈の向こうにロシア連邦、南にトルコ、アルメニア、東にアゼルバイジャン(その向こうにカスピ海)、西は黒海という地勢からしてわかるように、交通の要衝であり文明の十字路、古い歴史を持つ。1回目で触れたが、最古のワイン作りの痕跡があることからもそれはよくわかる。北の山岳、西の海に対して、南東のアゼルバイジャンに近い地域は砂漠地帯で、つまり土地柄も気候も多様性に富む。
歴史は、大きくは東西で違う。東はアラブやペルシャ、西はギリシャやローマの影響が文化にも及んでおり、それぞれ古くは東はサザン朝ペルシャ、西はビザンチン帝国の支配下に置かれたこともあるのだ。
その後12世紀になって、東西を合わせて南コーカサスと呼ばれる一帯をタマル女王が統治し、文化的にも栄華を極める。最近ジョージア映画を見られるだけやたらと見ているのだが、この「タマル女王」は、映画の中でもよく「タマル女王のご加護がありますように」と登場する。どうも地元では特別な存在らしい。日本語の音感でもどこか可愛いくてなじみがいい響きだ。
その死後にモンゴルの支配、再統一、ティムールの侵略、群雄割拠、といった変遷を経て、16世紀にはオスマン帝国とサファヴィ朝ペルシャに分割され、ロシア大公国の台頭とともに、徐々にロシア帝国の支配下へ、19世紀後半にはついに全土が支配のもとに置かれることに。
と、大まかに書けば書くほど、ジョージアはよくここまで民族的に自立し、国として独立できたものだとさえ思ってしまう。島国の日本と違い、台風でモンゴルが引くこともないのだ。

ロシアの支配下に入ったものの、第一次世界大戦の頃にそのロシアに変化が起きて行く。ついには、1917年にロシアで革命が起こり、1918年にジョージアは一時的に独立を果たす。
が、結局1921年にはソビエト政権下に組み込まれ、そして1922年にはソビエト社会主義共和国連邦が成立した。1924年のレーニンの死後、トロツキーとの後継者争いの末、スターリン(1878〜1953)がソビエト連邦共産党中央委員会書記長に就任、権力を集中させていく。
このスターリン、実はジョージア人だ。ヤルタ会談など第二次大戦の話でよく出てくるが、ソ連の人々を震撼させた1937、38年をピークとする大粛清こそ、いまや人々のスターリン像を塗り替えたと言っていい。この2年で死刑宣告を受けたと記録にある人だけでも70万人近い。スターリンが任期の40年ほどの間に粛清した人数となると、4000万人が犠牲になった、という人もいるほどで、途方もない数に上る。その数はあまりにも膨大で、研究者により未だ数字が異なるようだ。
出身地は、首都のトビリシから70キロほど西にある、クタイシに向かう幹線沿いのゴリという町だ。1883年まで住んでいた生家はスターリン記念館になっているという。この町を移動中に通りかかるというので、少し手前のパーキングエリアに止まった際に地図を確認し、町の表示だけ撮影した。暗い曇り空の下で俯瞰してみるゴリの町は、なんの変哲も無い、どこにでもある風采だった。


 ゴリの町の標識

どうも釈然とせず、「スターリンについてどう思うのか?」と、何人かのジョージア人に聞いてみたが、皆一様に、いい顔をしない。ひとりが答えてくれたところでは、ゴリの年寄りはいまだにスターリンを故郷の錦を飾った偉人として自慢するそうだ。スターリンの後継者のフルシチョフも「大粛清」を批判したし、ペレストロイカでも、そして現在のロシア政府も「悲劇だった」と非を認めているにしても、地元の人にとってはまた違う存在なのだろう。とはいっても、ジョージア人にも粛清の嵐は平等に吹いたそうだし、死後のスターリン批判の矛先は、ジョージア人に対して、出身地ということで苛烈に向かったとも聞く。

ソ連のその後についてはまだ記憶に新しい方も多いだろう。
1985年にはゴルバチョフが大統領に就任し、ペレストロイカ、グラスノスチ、とジョージアからシュワルナゼを外務大臣として迎え入れ、改革を進めていく。
そんな中、1989年にジョージアの北西部、黒海とロシアに挟まれたアブハジア(住民多数のアブハズ人にはイスラム教徒が多い)で分離独立の動きが高まり、首都トビリシで抗議中の民衆に軍部が実力行使をし、政府発表で21人が死亡する。その2年後に、ジョージアは念願の独立を果たし、連邦を離脱する(連邦は1991年に解体)が、その際に、初代大統領のガムサフルディアに反対する勢力が軍事クーデターを起こし、「トビリシ内戦」と呼ばれる戦闘にも発展してしまう。
ジョージアの大変な運命はまだまだ続き、先のアブハジアのみならず、中央部の北、コーカサス山脈でロシアと国境を接する南オセチア(イラン系の民族と言われるオセット人が多い)でも分離独立運動が紛争となり、再びアブハジアでも1992年夏には「アブハジア紛争」が起き、多大な犠牲者と、25万人もの難民を生み出してしまうのだった。
旅の途中、アゼルバイジャンの国境につながるステップ気候の草原の地に、この25万人の難民のために政府が作った集団住宅を見た。道の分岐点にあるドライブインのようなレストランの屋上で、ハチャプリ(チーズパン)にかぶりつきながら、案内のニアさんがそっと教えてくれたのだ。
「ニュースでやっていたのを覚えているんだよね。だいぶ経つのにまだ住んでいるんだなあ。移住した人も多いと聞くのだけれどね」。


 アブハジア戦争の難民が住む町

このクーデターで新たに大統領となったシュワルナゼの政権は腐敗に満ちていき、2003年に「バラ革命」と呼ばれる政変で大統領となったサーカシビリは、親欧米、反ロシアを打ち出した。その意趣返しなのか、ロシアは2008年8月に南オセチアに侵攻する。
「ロシア戦争」と呼ばれるこの「侵攻」によって、昨今のジョージア人の反ロシア感は強くなっているようだ。クタイシの市場の近くで、ロシア人観光客が通りがかると、いかにも外国人な風貌の私たちに伝えたいのか「ロシア人が来た」と英語で憎々しげにつぶやく人がいた。その50代の地元女性に少し話を聞けば「南オセチアに親戚がいるけれど、ずっと会えないまま」と、切実な状況が伝わってくる。何より、その状況が始まったのは、たった10年前のことなのだった。
ちなみに、サーカシビリは2012年に選挙で敗北し、ジョージアの政治はいまだ安定しているとはいいがたい。

そう、こんなこともあった。クタイシから北西部のスヴァネティという地方に抜けていくときに、車窓を眺めていた時だ。町の中心の広場には労働者が腕を組んで行進する巨大な黒いモニュメントが建てられていて勇ましいのに、どこか町の空気が荒んでいて暗く、違和感がある。そこでニアさんに「ここはどこなの?」と聞いたら「セキナ」だという。南オセチアとの紛争時の前線だったことが調べると出てきた。理由が戦争だけなのかはわからないが、この町には、トビリシとは違い、その後の平和な10年の歳月が流れなかったことは見て取れた。
おまけに周りの町も含め、一帯の建物や町並みがすべて一律で、聞けばソビエト時代のもの。共産圏の建築やデザインは、機能を重視する一定の特徴があり、見分けられる人も多いと思う。日本の感覚でいうと、一昔前の気の利かない団地が延々と続くという見た目なのだ。


 団地のような住居が続く

建て直すお金がないので、頑丈な建物にそのまま住み続けるのだという。そして空き家が多く見られる。理由を聞くと、
「ここには仕事がないから、海外にみんな出稼ぎに行くのだと思う」とニアさん。
「トビリシに行くんじゃないの?」と聞き返すと
「トビリシに行っても仕事がないから」とのこと。
道路はといえば、不自然なほどにまっすぐで長くて、飛行機が着陸できそうだった。必要な時には来るのだろう。この国ではすべてがこの道路のようにまっすぐではないのだけれど。

そうして出かけた、年末の「下高井戸シネマ」。
ジョージア映画を長年日本に紹介して来た岩波ホールのはらだたけひでさんの著作『グルジア映画への旅〜映画の王国ジョージアの人と文化をたずねて』(2018年、未知谷)や映画のパンフレット(岩波ホールのものなので、これもはらださんの執筆かと思うが)を参考に触れておこう(見られる機会があまりないため、結末まで書くのでネタバレにはご注意)。


「三部作のパンフレット」

「祈り」(1967年)では、国民的作家の叙事詩を原作にし、宗教をテーマに、辺境に住むキリスト教徒とイスラム教徒の間の争いを描く。闘いで天晴な最後を遂げたイスラム教徒の戦士に、敵ながら敬意と友愛を感じたキリスト教徒戦士が、勝利の印とされる右手を、切り落として持ち帰らなかったことで、問題は起きる。凱旋したはずの戦士は、逆に村から追放されるのだ。一方で、狩りで知り合った異教徒同士が親しくなり、イスラム教徒がキリスト教徒を家に招くと、その客人が仲間を何人も殺していたことから、村人は客人を捉えて墓場まで引きずり、処刑する。旧約聖書の世界を喚起させる芸術的で美しい映像は、何日経っても脳裏を離れない。同時に、その裏腹に、テーマは重くのしかかってくる。

「希望の樹」(1976)は、カラーフィルムとなり、ため息が出るほどに荘厳なジョージアの自然が描き出される。貧乏で母親を早くに亡くしたとはいえ、誰もが目を引くような美しさを持つマリタと、貧しいが心優しくハンサムな牧童のゲディアは愛し合うようになるが、頑迷な村の長老が、マリタと金持ちの息子との結婚を進めてしまう。結婚後にマリタの真意を知った姑は、古い慣習に従って村人とともにマリタを雪の中、村中を引き回して、泥の中で死に至らせるのだった。閉じた社会だからこその牧歌的な親密さと、その因習がもたらす悲惨な結末が、やるせない。
自主的に演じたという役者たちの演技がどれも無駄がなく、中でも、マリタを母親がわりに育てた祖母役の女優の演技が素晴らしくて、あっと声をあげてしまった。泥の中のマリタの美しい遺骸を見た祖母が、何か叫びながら嘆く。それは口から音声を発することのない「叫び」として表現されるのだ。見ているこちらにも、哀しみが振動として伝わって来た。このシーンだけでも見る甲斐がある。
後でパンフレットを読むと、この祖母役の女優は、台本通りにセリフを発声する演技で撮影を終えた後、「セリフを口に出さずに心の中で言う、それをもう一度撮ってくれ」と監督に懇願したのだそうな。

「懺悔」(1984年)では、ジョージアの架空の街で「大粛清」で人々が壊れて行く様子が描かれる。スターリンを思わせる市長の遺体が墓から掘り出される事件から映画は始まり、ミステリーのようにどんどん話が進むので見ていて飽きない。犯人は、芸術家の両親を殺された娘で、裁判で当時の様子を語り、糾弾するのだった。
公開から3年後の1987年にはカンヌ映画祭で審査員特別対象を受賞するなど、評価は高まっていた上にペレストロイカの最中、という環境にもかかわらず、この作品は「反ソビエト」として上映禁止となっていた。関係者は映画をビデオに何本もコピーし、それを回覧して見せたのだそうだ。また、検閲(まだまだ80年代後半にもあったことに驚く)をかいくぐってフィルムを運んでモスクワで上映し、この映画自体が、ペレストロイカの象徴となるのだった

いつも見慣れているハリウッド映画とは対極にある。ありすぎて、頭がぐらぐらだ。あえて「無言」を表現手段とするのが、ジョージアの方法なのだろうか。

同時に、こんなに怖い映画を見たのは何年振りだろう。幽霊や宇宙人よりも怖いのは、人間の「正義」かもしれない。
見終えて以来ずっと、「無言」の意味を考えている。