雑誌と書籍の化学反応

西荻なな

いつだったか誰かが、出版の仕事と一口にいっても、「雑誌型人間」と「書籍型人間」というのはまったく似て非なるものなのだ、とどこかで書いていた。それはまったくその通り、と膝を打つ思いだったのだが、そこでの指摘はおもに、仕事の性質の違いに目を向けたものだったと記憶している。「雑誌」は多様なパーツを集めて、組み合わせの妙で総体としての何かを表現するところに醍醐味があるだろうし、「書籍」はじっくりと培養させてひとつの発酵物を作るような息の長さをともなうが、育てる魅力がある。「書籍」が得てして編集者と作家(書き手)の一対一の関係性にもとづく一方で、「雑誌」はチームであり、一人ひとりのメンバーに連なる書き手の掛け合わせで紡がれる複数性によっている。この分類には、媒体としての性格の違いと、働き方の違いと、双方に目が向けられていたはずだ。さらにプラスすれば、何も出版の仕事の現場にかぎらず、あらゆる仕事に敷衍して考えられる人間的な比喩でもあるのではないだろうか、と今にして思う。

そんなことが思い出されたのは、自分の中で「雑誌型」と「書籍型」の併存、その往還があることこそが落ち着くあり方で、「書籍型」だけではどこか立ちゆかない、という思いが増しているからなのだろう。何か豊かに生態系がたちあがっている現場には、目に見えない複数のレイヤーが折り重なって、ふんわりとしたミルフィーユ状の交歓を感じることが多い。一人ひとりが「書籍型人間」で何かをじっくり醸成していながら、ジャズセッションのように、その時々でバンドメンバーが集い、「雑誌型」で何かを立ち上げてゆく。さらに、その一人ひとりは同時に他の雑誌編集にも立ち会っていて、同時進行する別の現場でつかんだ何かをまた別の現場に持ち帰り、創作のエッセンスの一部となる。断片と断片が結びあって、まだ見ぬ何かが生まれることが創作ならば、二人の閉じた関係の中で創るあり方は確かな方法かもしれないけれど、もっと広く、目に見えずとも共有される「場」のようなものが真に何かを生む土壌となるように思われる。それは、特集が毎号違っても、「私に向けられている」「次はこの球を投げて来たのか」と買ってしまう「雑誌」と私自身の関係にも近いものかもしれない。何かわくわくさせる雑誌的な「場」がゆるやかに立ちあがっていればこそ、そこにはこんな「書籍」も相性がいいし、この「書籍」のエッセンスを入れた化学反応を見てみたいようね、という求心力や発想も生まれてくる。そうして、「雑誌」と「書籍」はひとりでに、引きあうように動き出す。

本を一冊ではなくて複数同時読みすることで、少しの時間差とズレの中から思いがけぬ点と点が次の点を引きよせ、直線や曲線を描き出す瞬間、読書の喜びを感じるように、人と人の交歓のなかに同じような実りをもたらす「場」を、そうした「場」に憧れながら、自分発信で作ってゆけたらと思うのだ。