のら仕事を終え
夜道を「てって てって」と帰ってくる
それから
「つきよのあかりで せんたくをして
まいばん かやをひとたば まるめ
ふろに へってよ
それから
つかれたときは
さけを いっしょう 買ってくるわ
それを こっぷさ にはいずつ のむ
そで
きょうは くたびれたから
もうすこし いいかなってんで
もういっぱい のんじゃうね」
1人くらしの よねが
そのころ つかっていた風呂は
野天の ごえもん風呂だった
1971年2月 3月の
第1次代執行
私も よねの家に やっかいになった
闘いのない日には
私はよく薪をひき 薪をわり
よねの家の ひさしの下に
積みあげた
よねの家の両脇に 小屋がたち
若者たちが たくさん
とまりこんだ
飯たくかまどには いつも火が燃え
ごえもん風呂は
毎夕 煙りをあげていた
1971年9月20日
第2次代執行
前日 よねは 湯につかったかな
ごえもんは ふたをかぶっていたかな
ふたの上に タルキがくずれ
すのこの上に 土壁がくずれ
ついには ごえもんが
くずれたか な
東峰の このプレハブに
よねが移り住んで
青年行動隊は 大工らが中心となって
風呂場と便所を よねに贈った
風呂場には
ガス釜だったか 石油釜だったがが
すえつけられたが
だれかが空焚きをして
まもなく こわれた
「こんな ふべんなものは ねぇ
やっぱり ごえもんが
いちばんだ
ごえもんは じょうぶで いい」
いきさつは うつろだが
私はよねから
風呂づくりを たのまれた
条件派のやしき跡から
リヤカーで
雨ざらしの ごえもんをはこび
2日ほどで 完成した
よねは ニコッとして 喜んだ
その風呂に
こうして
私が
毎日毎日 はいるなんて
おもっても みなかった
あのころから
風呂場は ちっとも変わらない
私たちが
息子になったころに
ほのかに感じとった よねのにおいも
すっかり 消えて
私は上の子2人と
美代はうまれてまもない下の子を抱いて
湯にはいる
思いおこせば
東京で銭湯につかった時期を
のぞけば
私は うまれてから ずっと
こんな風呂で
よごれをおとしていた
赤さびがうかぶ ドラムカンの風呂も
なつかしい おもいでだ
ドラムカンに 背中をくっつけると
やけどしそうで
小さな体を
ちぢこませて
じっと はいっていた
たしか 野天で
雪が ちらついていた
赤々と燃えるおきを
ぼんやりと ながめながら
湯がわくのをまつ時間が 好きだ
おきのなかに
よねがいて
仲間がいて
ひざがあたたかい
闘いが 見える
(1980.1.11)
掲載にあたりすこし書き直しました。