昨年に比べて何週遅れなのだろうか? ようやく蝋梅が満開となり、梅もちらほらと咲き始めた。道の端の日当たりの良いところでは、オオイヌノフグリが一つ二つと花をつけ始め、この花がとにかく好きなので歩きながら蹲って眺めずにはいられない。私たちはあまり寒くなくてよかった、とか、とかく暖かな日が続くことを喜ぶのだかけれど、植物には冷え込むべき時にはちゃんと冷え込むような、そんな天候のメリハリみたいなものが必要なのかもしれない。
朝起きて、まず何をしますか? と問われたことがある。朝起きてとは言っても、宵っ張りになっている自分が目を覚まして起き出す頃には、何か用事でもない限りは、もう日は高々と昇っていて昼も近くなっていることが多いのだが、それでも布団から出たらまずコップ一杯の水を飲み干し、それからするのは日向ぼっこである。何を呑気な、と叱られそうだが、起きて太陽の日差しに当たらないことには、体が動かないのだから仕方がない。東京に住んでいれば御多分に洩れず、高いマンションの一室にでも住んでいない限り、日当たりはあまり良いとは言えない。私の家には猫の額ほどの庭がないではないが、やはり日当たりがいいとは言えず隣家の間と間から日が差し込む時間はごく限られているので、その時間に間に合わなければ、それでもまだ長い時間陽があたっている家の前の道に面した玄関先に、ここだって午前でも昼近くならなければ日が当たらないのだが、蹲ることになる。冬場は、布団にくるまって寝ていても、目が覚めると身体が冷え切っていることがあり、特に肩の後ろの肩甲骨の辺りに冷えがこびりついたようになっていることがあり、もちろん風呂に入れば解消はされるのだろうが、それよりもぎりぎり午前の光にじっと身を晒していると、体の奥底、鳩尾のもっとからじんわりと暖かさがたまってくる。これはガラス越しの光ではダメで、猫じゃないんだから、とか、光合成している、と笑われるのだが、こうでもしなければ一日が始まってくれないので、起きるやいないや外に出ていき、玄関先にじっと蹲ることになる。雨の日や、曇りの日には日差しを浴びるということもできず、なんとも心許ないような気持ちになってしまうのだ。
蹲りながら、特に何を考えるということもない。ただその身を光に晒しているのである。冬の光は、白い、というよりも、微量の黄色を含んだ色をしている。これは、起きる時間のせいでもあるかもしれない。もう斜光になっているのである。曇りの日の何もかもが白い、くすんだ白さに覆われるような日も悪くはない。その白さと言えば、全ての色がないような白さであって、陽が差していないのに、影がないために眩しいほどだ。よく晴れた日の空の青は、青というよりは、それは多分微量の赤色を含んだ、くっきりとした、どこか重さを感じさせるような青だと思う。この空の青に、どこから赤色が混ざってくるのかは分からない。
このところ見た演劇や、読んだ小説で悲しくなることが多く、別に肯定的なものが見たかったり読みたかったりするわけではないし、悲しいことは決してダメなことではないが、なんだかシュンとしてしまうことが多かったように思う。そのどれもが、「美しい」と思って始まった物事を、人が自ら踏み躙るように汚して終わらせしまう、という展開をとっていることが多く、なぜ人は「美しかったもの」を、それを終わらせる時にわざわざ踏み躙るように汚そうとするのだろうか、なぜ終わるとしても「美しい」ものを「美しい」もののままに終わらすことができないのかと堂々巡りのように問うことになった。劇を見終わった後に、小説を読み終わった後に、かつては美しかったものの無残な残骸が残っている。それは失われなくてはなかったのだとしても踏み躙るように汚されている。まるで「美しさ」から引きずり下ろさずにはいられなかったかのように。そうでもしなければ終わらせることができないのだ、ということは言えるかもしれない。しかし、それは結局のところ「美しい」ということを信じ切れなかったということではないか。ほんとうに「美しい」ことを希求していなかったのでないだろうか。では、「美しさ」とはなんだろう。「ほんとうに美しい」とは、どんなことなのか。それは分からないし、そんなことは到底実現できないのだとしても、それを望まず、希求しないのならば、私たちの生とは一体なんなのだろう。もしかすると私たちは今、「美しさ」ということ、「ほんとうに美しいこと」を信じることができなくなっているのかもしれない。
「けれども一体どうだらう。小鳥が啼かないでゐられず魚が泳がないでゐられないやうに人はどういふことがしなければゐられないだろう。」と学者アラムハラド氏に問われた時、その宮澤賢治の未完の童話の中の生徒は「人はほんたうのいゝことが何だか考へないでゐられないと思ひます。」と答えるのだったが、私だったら「人はほんたうの美しいことが何だか考へないでゐられないと思ひます。」と答えるだろうか。それは、「ほんたうのいゝこと」「ほんたうの美しい」があることを信じている、ということなのかもしれない。それが現実には到達できなくとも「考へないでゐられない」ということは、それが「ある」ということを信じている、ということではないか。この場合の「ほんたうのいゝこと」「ほんたうの美しいこと」は、自分自身にではなく、自分を含めた、それは人とは限らないが、すべて他者に対しての「ほんたうのいゝこと」「ほんたうの美しいこと」であり、その他者の「美しさ」に感嘆することにほかならない。
「アブラハムドはちょっと眼をつぶりました。眼をつぶったくらやみの中ではそこら中ぼうっと燐の火のやうに青く見え、ずうっと遠くが大へん青くて明るくて黄金の葉を持った立派な樹がぞろっとならんでさんさんと梢を鳴らしてゐるやうに思ったのです。」
このところ晴れの日が続いている。見上げれば、ほんの僅かに赤色を混ぜた、少しだけピンクがかったと言ってもいいけれど、青い空である。その下にいつも歩きに行く松や櫟や欅の林が見える。手元だけを見ても分からない、遠くを見なければ分からないことだってあるのだと、ふと思う。