「名前」の居心地の悪さについて

越川道夫

「しかし私は一度だってこんなものに似ていたためしがない!」(ロラン・バルト)
 
秋である。
ひどく暑い今年の夏には花を開かせることなく沈黙したようだったカラスウリ属が、少し気温が下がってくるとまた花を咲かせ、咲かせたと思うともう赤い実や黄色い実をつけていたりする。酷暑に植物もその生命の動きを停止させていたのだと思いながら、あいも変わらずコンクリートに固められた川沿いの道を、仕事場に向かって歩いている。
黄色い花がさいた。名前を知らないのである。
白い線香花火のような花が咲いていた。これも名前を知らないのである。
調べればいいのだが、よほどの必要に迫られない限り調べもしない。飽きもせず、毎日のように人間を目の端に入れることを拒み、上や下を向いては植物や虫たち、小さいものたちの姿を眺めているはずなのに、その名前を驚くほど知らない。
愛でることは、名前を知ることなのだろうか。そうかもしれないが、そうとばかりは言えないのだと言い訳のように考えている。その花が(いや「花」というのも「名前」の一つではあるのだけれど)「それ」が「そこ」でその生を営んでいればそれでいいのだ。そもそも名付け、分類したのは「人間」なのであって、「それ」は「人間」に名付けられなくとも、分類されなくとも関係なく「そこ」にあるのだし、「人間」が死滅してしまえば「名前」など何ほどものでもない。
 
仕事でスタジオを訪ねる。そのスタジオはオートロックのマンションの一室にあって、ロビーのインターホンで部屋番号を押し呼び出すと、スタジオの主の声がスピーカーから聞こえる。「あ、越川です」とその声に答えて、答える側から「越川」と名乗ったことに違和感を感じてしまう。書類に、この文章にも「越川道夫」と署名する。今も「越川道夫」と書いた。自分の名前を書いたはずなのに、書いた側から「越川道夫」とは一体誰のことか、といつも戸惑い、名乗ったことに居心地の悪さを感じて落ち着かない。思い返せば、幼い頃からずっとそうなのである。愛着を持てないどころか、自分で名乗り、署名しておきながら、居心地が悪く、もぞもぞとしてしまう。「越川」という名字には実は縁もゆかりもなく、自分の数代前の人が、とある「越川」という家が絶えてしまうので「貰ってくれ」と言われて「貰った」名字だと、幼い頃から聞かされていたせいだろうか。本当は「〇〇」という名字なんだよ、と言われても、その「〇〇」も自分とは無関係な他人の顔をしていて馴染めない。「道夫」という名前も、本当は「道介」にしようと思ったのだが、母が「道介」はあんまりだからやめてくれ、と懇願するので、せめて「道夫」にした、と聞かされていたからだろうか。では「道介」はどうかと言われても、やはり誰のことか分からない。どうやら、それが理由ととばかりは言えないようだ。名前を聞かれて、「越川道夫」と答えるたびに、「越川道夫とは一体誰のことだろうか」と考える。おそらく、その「名前」がなくても、私は、いる。
 
名付けるとは「所有」するということであるだろう。植物や虫たちを「名付ける」ことによって、彼らには関係なく「所有」している気になっているのだとしたら、自分の名前もまた自自分自身を所有している(気になっている)ということだろうか。自分の名前に居心地の悪さを抱え、まるで他人のような気がしてしまう私はさしずめ「私」を「所有」していない。
 
きのこは、これまで日本だけでも2000種程度が報告されているが、実際に日本に分布しているきのこは5、6000種にのぼると言われているそうで同定することが難しいらしい。人間が「所有」しきれない世界がある。私には、そんなことがひどく希望のように思えてならない。