「疼き」のようなもの

越川道夫

つい少し前までドクダミが白い花をいっぱいに咲かせていたかと思うと、7月の半ばにはその花も終わり、茶色の花芯を残したまま濃い緑と紫色になった葉が斑になって地表に這いつくばっている。薊の花も終わりかけ、褐色の実が破れたところから綿毛が溢れ出している。林の中でオニユリとヤマユリが咲き乱れるのを楽しみにしていた。葛の花が咲き始めたという知らせがあって、少しだけ足を伸ばして河原に見に行ったのだが、まだ花は咲いてはいなかった。
 
今月は、瞬く間に過ぎていった。
コロナウイルスの影響下で、自分の仕事に何一つ指針が見出せないまま、それでも毎日川沿いを歩いて仕事場に通い、それでも申し訳程度にはある仕事をして少しばかりの収入を得、考えあぐねているばかりなのに気づけばもう深夜になっている。自分の中で何かが大きく変わり、これまでのようにはできないことは分かっても、何が変わったのかは分からない。分かっているのは、読むことができる本と、これまでは読めていたのに、この事態を経験してどうにも読むことのできない本ができてしまった、ということぐらいだろうか。
9年前の大きな震災の後もそうだった。仕事は止まってしまい、部屋の中で、「この本は読める」「この本は読めない」と一冊一冊選り分けていたのを思い出す。しかし、「これはもう読めないな」と判断した本も「いつかは読むことができるだろうか」というさもしい思いがあって、なかなか処分することができなかった。今もそれは部屋の隅に埃をかぶって堆く積まれたままになっている。
 
それだけではない。あの時は、「海」に向き合うことができなくなった。
海沿いの町に育ち、嬉しいにつけ悲しいにつけ海を眺めにいくような人人の中で育った。東海大地震と、津波と、やはり近くの海辺にある原発の脅威に脅かされ続け、ちょっとでも気を許せば死人がでるほどの荒い海にも関わらず、海は自分にとっていつも近しい存在だった。それが、あの震災以降、「海」にどんな顔をして会えばいいのか分からない。震災から4年後に初めて映画を監督した作品でも、初めての設定は海だったのだ。しかし、台本にはそう書いたものの、どう「海」にカメラを向けたらいいのかが分からない、分からないまま、舞台を「海」から「山間の湖」に変えたのだった。
やがて、「海」とは和解した、と感じている。きっかけは何のことはない。震災の二ヶ月前に生まれた息子は、何を知っているわけでもないのに赤ん坊の頃からずっと海を恐れていた。それが5歳になったある日、急に「海で遊んでみようかな」と言い出した。半信半疑で連れていくと、波打ち際に恐る恐る近づき、やがて「海」と対話でもしたか波と打ち解けたように遊び始めた。それを見ていて、なぜか「ああ、もう海を撮っていいのだ」と安堵するように思ったのだった。あの頃は、「子どもたち」と、それから「避難区域に取り残された動物たち」のことばかり考えていた。自分には「子どもと動植物以外撮るものがあるだろうか」とも考えていた。そして、その考えは今も変わってはいない。おそらく、どんなに人間の男女のことを映画で描いたとしても、私はきっと人間ではなく別の動物たちのことを描いているのだと思う。例えば、よく散歩で行く公園で出会う野良猫たちのこととか…。「あの野良猫たちを愛するように人間たちのことも見つめたい」と思っているのかもしれない。
 
緊急事態宣言からしばらくして、深夜仕事場から帰る途中、自分の胸の奥底に「疼き」のようなものがあることに気が付いた。それは何と言えばいいだろう。自分を「分解してしまいたい」ような、何かに自分が「解体されていく」ような、そんな「衝動」というか「疼き」のようなものが鳩尾の奥の方にある。あの震災の原発事故の渦中では感じたことがなかった「疼き」。これが、ウイルスの影響下だということなのだろうか。
 
夏にさしかかり植物たちはいっそう存在が強くなっていく。花は強く匂い、緑は獰猛だと感じるほど爆発的に盛り上がっている。人の手によって植えられた木や草花でさえも人間にとっての存在であることを拒絶して、樹は樹でしかなく、草は草でしかなく、私もまたその中で、生まれやがては朽ちていく生命の一つでしかない。
 
1925年スペイン風邪に罹患したヴァージニア・ウルフが、こんなことを書いていた。
 「空がいくら無関心でも、花たちがいくら取り澄ましていても、直立人たちの軍勢は勇ましい蟻ないし蜂よろしく、いざ戦闘へと進軍していく。ミセス・ジョーンズは予定どおりの列車に乗る。ミスター・スミスは車を修理する。(…)横臥(おうが)する者たちだけが、自然は自分が最後に勝つということを隠そうともしない、と知っている。」(「病気になるということ」片山亜紀・訳)