満身創痍の演劇

越川道夫

次々と花を開かせている。白い、とわざわざ書いたのは、なぜか私の住む近辺では、まず白い彼岸花が花を咲かせ、それからゆっくりと赤い彼岸花が盛りになっていく。彼岸花といえば赤という先入観があるせいか、その様子を何か不思議なものでも見るような気持ちで毎年眺めている。この秋、といか初冬の11月の太田省吾さんの戯曲『更地』を三鷹SCOOLで演出することになった。久しぶりの舞台。稽古も始まっているが、Twitter上で自分が考えていることをまとめる意味で『更地』初演の頃のことを何回かに分けて投稿した。それをここに加筆した上でまとめておこうと思う。
 
太田省吾作・演出『更地』の初演は1992年。私が27歳の時である。縁があって、私はこの演劇の稽古場助手についた。『更地』は、太田さんが主宰した転形劇場解散後、初の芝居。転形劇場の芝居は、赤坂工房の時代から『小町風伝』、いわゆる沈黙劇三部作『水の駅』『地の駅』『風の駅』を経て『水の休日』と解散まで追いかけるように観ていた。自分も小さな芝居を作っていた頃である。転形劇場の作品だけではなく、今でも最も好きな俳優である中村伸郎さんのために書かれた『棲家』や『午後の光』も観ていたし、太田さんの『飛翔と懸垂』『劇の希望』といった演劇論をいつも手元に置いて何度も読み返し、太田省吾という人は間違いなく若い日の自分に大きな影響と刺激を与えてくれた演劇人のひとりであった。だから『更地』の助手の話をもらった時、一も二もなくその仕事に飛びついたのだ。太田省吾の演出を間近で見ることができるのだから。私は、『小町風伝』『水の駅』を作った太田演出の「秘密」が知りたかったのだと思う。しかし、結果から言えば、私はその「秘密」をひとつも知ることができはしなかったのだった。
『更地』の出演者は夫婦である男と女の2人。その2人がおそらく長らく棲んだ家を取り壊した後の更地にやってくる1時間20分ほどの2人芝居である。初演の出演は、岸田今日子さんと元転形劇場の瀬川哲也さん。稽古初日から本読みはなく立ち稽古(あったのかもしれないが私は参加していない)。しかも通し稽古(戯曲を頭から終わりまで演じる)だった。その後も、抜き稽古はほぼ記憶にない。連日昼からまず一回通しをしてダメ出し、もう一度通しをして終了という稽古が続くこととなった。稽古初日で覚えていることと言えば、最初の通しで演じる岸田さんと瀬川さんを一度も見ない太田さんの姿だった。あれは音を聴いているのかもしれない。しかし、俯いたままチラとも見ない…。
 
演じ終えた瀬川さんと岸田さんが並んで太田省吾さんの前に立つ。どんなダメ出しをするのかと、固唾を呑んでいる私の耳に聞こえてきたのは、具体的な演技についてではなく演劇の状況論とでもいうべきものだった。「197X年から演劇のタームが変わりましたね。」正直言うと太田さんが何を言おうとしているのだか。若かった私には一つも分からなかった。話は20分も続いただろうか。「…ということです。ではもう一度」。何が「ということ」なのだろう? 今の話を聞いてお二人はどんなことを考えているのだろう? 疑問の中で始まった2回目の通し。すると、瀬川さんが突然台詞を喋りながら何度も立ち幅跳びの様に跳び始めたのだ。我ながら馬鹿みたいだが、あ、跳んだ、と思った。なんで瀬川さんは跳んだのか? その通しが終わった後、太田さんがその跳躍に言及したかどうか記憶にはない。おそらくなかったのだと思う。
 
初日の稽古が終わった後、瀬川哲也さんと新宿の喫茶店に入った。私の中には聞いてみたいことが渦巻いていたのだと思う。「太田さんのあの演劇論のようなダメ出しですが、何を言おうとしているのか分かりましたか?」。「一つも分からない」。「でも、あの後、瀬川さん跳びましたよね」。「(考えて)…太田省吾の言葉に対抗するには役者は身体で対抗するしかない。だから跳んでみた」。この瀬川さんの言葉を今でもよく反芻することがある。演出を俳優との関係、言葉と演じる身体の関係を考えるときに、いつもこの時のやりとりがまず頭に浮かんでくる。「太田省吾の言葉に対抗するには役者は身体で対抗するしかない」。『更地』の稽古は、まさにその繰り返しだったと思う。瀬川さんがあのように跳んで台詞を言うことは、それ以降なかったが、それからも太田さんは時にはダメ出しで演劇論を語り、時には具体的な指示を出し、1日2度の通しを繰り返しながら稽古は淡々と続いた。私は「秘密」など一つも掴むことができないまま、『更地』という演劇が豊かに育っていくのをどこか置いてきぼりを食っているような気持ちで眺めている無能な助手であったと思う。
 
あの衝撃的だった沈黙劇『水の駅』について瀬川さんに問うたのもこの頃だったと思う。舞台中央に剥き出しの水道がある。蛇口からは水が細く絶え間なく流れ続けており、その水道にさまざまな人たちがたどり着き、関わって、また去っていく。観客には一切の言葉は与えられない、あの舞台。「あの芝居には、台本があって台詞もあった」と瀬川さんは言う。「それがどうやって沈黙劇になったのですか?」「初めから意図して沈黙劇にしようとしたわけではなかった。いろいろやっているうちに言葉は全てなくなってしまった。だから、どうやって沈黙劇になったのか言うことはできない。(長く考えた後)だから、どうやって沈黙劇になったのか言うことはできない…魔法だと思って欲しい」。
 
瀬川さんは、『水の駅』がどうやって出来上がったのか語ることができない、「魔法」だと思ってくれ、と言う。後年、元転形のメンバーだった大杉漣さんにその話しをすると、「魔法って、瀬川さん、そりゃカッコよすぎるなー」と大笑された。「あれは大変だったんだよ」と。
 
昨年、早稲田大学演劇博物館で「太田省吾 生成する言葉と沈黙」展があった。その展示で興味深かったのは、『水の駅』の台本が全ページ、PC上で閲覧できたことである。これか、と夢中で頁を繰った。初めて目にする『水の駅』の台本。そこにあるのは夥しい「言葉」、溢れんばかりの「引用」。それぞれのシークエンスに、そこで演じられる「言葉」があったのです。それは、鈴木志郎康の詩であり、金杉忠男や太田省吾さん自身の戯曲、アラバールの戯曲の断片、尾形亀之助の小品、言葉だけではなく「絵画」の図像の引用…。この「言葉」たちをひとつの作品の中で演じるということは、どういうことなのだろう。台本を目の当たりにしても「謎」は深まるばかりだった。「言葉」に「服従」するのではなく、「言葉」と「身体」または「演じること」がどう拮抗するのか。どのような作業をすればそれが可能になるのか。この膨大なテキストから、どうしたら私たちが今映像で見ることができる『水の駅』の身振りが生まれてくるのか。その途方もない「遠さ」。「他者の言葉」との「格闘」の末に出来上がったのが、あの『水の駅』だということに目眩がする思いだった。これではまるで「言葉」に対して素手で喧嘩をするようだ。私が観ていたのは、演劇というよりも『水の駅』という満身創痍の格闘の痕なのではないか。もし万が一『水の駅』を再演することがあるのであれば、今一度この「言葉」たちと格闘するほかはない。その末に立ち上がるのは、あの『水の駅』とは、まったく異なるものになるだろう。
 
言うまでもなく、太田さんにとっても瀬川さんにとっても『更地』は、このような沈黙劇における「言葉」との格闘を経ての「台詞劇」という側面を持っており、『更地』の稽古の底には、やはり「言葉」との激しい格闘が隠されていたのだと思う。私が稽古場で見たものは、その格闘の軌跡だったのだろう。それは静かな格闘だった。とてつもなく静かで激しい。基本的には穏やかで、深い声で話し、寡黙と言っていいほど言葉の多くはない太田省吾さんが稽古場で苛立ちを隠さず、怒鳴るわけでも何かに当たるわけでもなくむしろその激しい苛立ちに耐えるようにそこにいた姿をとてもよく覚えている。あれから30年以上が経ち、太田さん、瀬川さん、岸田さんもいない。「年をとったら自分も『更地』を」と話してくれた大杉漣さんも、もういない。