春はずっと林に路肩に菫を追いかけている。地面近くに薄紫の小さな花を咲かせる、あの姿が好きなのだ。雨の降った後に、泥だらけの顔で、それでも姿勢をなんとか保とうしているのもいい。きっと菫は、私たちが思っているよりも強靭なのだと思う。地面に這いつくばって菫を覗きこんだ写真を撮ったりしていると、大丈夫ですか、救急車を呼びましょうか、と抱き起こされることもしばしばである。調子を悪くして倒れているのと間違われたのだ。まったく人騒がせなことである。
日本には50種類ぐらいの菫があると言われ、そのうえ亜種も変種もあるとしたら、私などにはとても同定することはできない。実のところ植物の名前には、ほとんど興味がなかいのだ。そもそもカタカナの名前が覚えられない。そこで生えている、その姿を眺めることが好きなのである。5月も半ばを過ぎれば、菫はすっかり姿を消す。林ではエゴノキの白い花が満開になって散り、今では樹の根元にびっしりと敷き詰められたように生えたドクダミが白い十字の花を咲かせている。その隙間からホタルブクロが背を伸ばし、首を垂れたように花を咲かせている。また春になれば、私は飽くことなく菫を追いかけることだろう。
二十代の後半は、撮影所の助監督に嫌気がさして、映画館で映写技師をしていた。映画は今ではデジタルのデーターの映像になってしまったが、私が映写をしていた頃はまだ35mmフィルムの時代である。映画は直径が50cmほどのアルミやプラスチックの缶に収められている。1時間45分の映画となれば、巻き方にもよるが、だいたいこの缶が4つか5つ。大体1巻が30分くらいだろう。これを映写室に備えつけてある2台のまるで恐竜のような映写機で交互に切り替えながら映写していくのである。即物的な意味で映画の正体は、これである。缶に収められた巨大なフィルムの塊。本のように読めるわけでもなく、絵画のように眺めるわけにもいかない。死んでいる。映写技師だった頃、そう考えていた。ただのフィルムの塊である時、映画はその生を生きてはいない。眠っているというよりは、生きていない、死んでいるのだと。それを映写機に掛け、機械が動き出し、一秒間に24回の明滅を繰り返しながらプロジェクションされ、映画はその「生」を生きはじめる。何度でも。映画は一からその「生」を生きる。
深夜、オールナイトの映画を上映しながらこんなことも考えていた。映画は多くショットで構成されているが、このショットには何が映っているのだろう。映画が表現しようとしている物語のことではない。カメラが一定の持続する時間、対象を見詰め続けそれがフィルムに映っている。これをショットと呼ぶのだが、このショット自体には何が映っているのだろうか。深夜の朦朧とした脳が導き出したのは、このような答えだった。いうまでもなく人生はすべて崩壊の過程である、と言ったのはフィッツジェラルドだったか。存在するものは刻々と崩壊している。1秒後の存在は1秒前の存在に比べて崩壊している。ショットに映っているのは、そのカメラが見詰めている存在の崩壊の過程なのだ。どのショットもどのショットも、その崩壊が映っている。すべて倒れんとする者。その倒れようとする姿をショットは掬いとっているのではないか。掬いとり、掬いとり続け、倒れる前に崩れ落ちる前に次のショットへ…その連続である。そう考えると、多くのショットが繋がれている映画というものが、まるでサッカーのリフティングのように思えてくる。ボールを地面に落とさないように宙で蹴り続けること。地面に落下してしまえば終わりである。
書くこともまた同じだろうか。「この『判決』という物語を、僕は22日から23日にかけての夜、晩の10時から朝の6時にかけて一気に書いた。」終わりを決めず、一度書き始めたら、可能な限り「一息に」、可能な限り中断することなく書いてしまおうとしたカフカ。彼は、作中人物がどのように発展するかを知ることなしに、暗いトンネルの中をペン先についていくように書いたと言われている。ペンが先に進もうとしなくなったら、そこで終わり。ノートには横線が引かれ、その後を書き継ごうとする余地さえ残されてはいない。そのように一気に書いたカフカには、書いている間に「落下している」という感覚がなかっただろうか。落ちていく、落ちていく。落ちていくものをジャグリングの芸人のように掬いとり掬いとり、言葉を継いでいく。そして、もう落ちる余地がなくなったら、そこで終わるのである。
フィルムは映写機によって1秒間に24回の明滅を繰り返し、止まっては掻き落とされていく。(映画の絵が動いているように見える原理は、いわゆるパラパラ漫画である)フィルムは掻き落とされ続け、落ち続け、落下し、落下し続ける。これは何もかも深夜の妄想であるだろうか。フィルムの一コマ一コマが掻き落とされていくのを見ながら、いつか見たアニメ映画『トイ・ストーリー』にこんな台詞があったのを思い出す。
「飛んでるんじゃない、落ちてるだけだ。カッコつけてな」