醜い頭部のこと

越川道夫

夜中に仕事場から川沿いを歩いて帰ってくる。コロナ禍によって大切に進めてきた仕事はすべて中止か延期となってしまい再開の目処はまったく立っていない。映画監督としては半ば失業状態というようなものだが、それでもやらなければならないことはある。冬になって川沿いの木木の葉は落ち切ってしまった。それまでは茂った葉に埋もれるように眠っている白鷺を見上げることを楽しみにしていたのだが、裸木になってしまって彼はもうここでは眠っていない。
玄関脇に大きな木があって、その木を覆うようにしてキカラスウリが実をつけている古い家があった。通りかかると木ごとバッサリと切られてしまったらしく、それももうない。もしかしたら家ごと無くなるのかもしれない。疫病の影響とは言い切れないが、このところ古い家が取り壊されたり、売家になっているのを多く目にするような気がする。
 
ふと思い立って出不精の私にしては珍しく松濤美術館に舟越桂展を観に行った。小規模ながら舟越さんの彫刻の仕事が俯瞰的に展示されているのだ。舟越桂さんの父。保武さんの彫刻には、 ほんとに美しいものの「顕現」というものが感じられて好きなのだけれど、桂さんの初期の作品、その人物の彫刻にモデルがいる作品群には、どう言ったらいいのか何か「俗」なものの静謐な佇まいがあってずっと惹かれてきた。「俗」とは悪い意味ではなく、それぞれの身体が持つ「どうにもならないもの」がそこに慎ましやかに現れているような気がするのだ。その彫刻の前に立って、私はその身体に触れたいと思う。その華奢な腰回りを抱きしめ、潮の虚な眼に口づけしたいと思う…。ところが第二展示室に飾られていた近作にはまったく惹かれることがなかった。ある危機感のようなものから出発し、彼の想像力を自由にはばたかせて作られたその彫刻には「モデルがいない」、と説明にはあった。
 
第二展示室から逃げるように初期の作品の展示へと戻りながら、思い出したことがある。中学生の頃、美術で2人ひと組になってお互いの頭部をブロンズで作るという授業があった。私が組みになったのはOくんという美術に特異な才能があった同級生だった。自分ではOくんの頭部をよく観察し、「美しい」Oくんの頭部を作ることができたと思ったのだが、相方のOくんが作った私の頭部を見て驚いた。私は、彼の作った私の頭部を「醜い」と思った。見ることが堪え難かった。そしてその頭部は「醜い」だけではなく、まさしく「私の頭部」だったのだ。私は自分の作ったOくんの頭部がひどく「貧しい」もののように思えた。
 
この「醜さ」が「どうにもならないもの」の正体であるのかもしれない。おそらく、私が作っていたOくんの頭部は、よくデッサンしたつもりでいても、私の「美しいと思う形」に引きずられ、物の一つ一つの存在が持つ「どうにもならないもの」から乖離し、言ってしまえば絵空事になってしまったのだと思う。私が見ていたものは彼の頭部ではなく、自分のつまらない美意識とでもいうものであった。Oくんは私の頭部に「どうにもならないもの」を、私の頭部にしかない「何か」を見てくれていた。それに引き換え、私は自分の美意識を優先して、Oくんの頭部にしかない「何か」を見なかったのである。今でもOくんの作った「醜い」私の頭部のブロンズ像を、とても「美しいもの」として思い出す。