水牛ポロネーズ

藤山敦子

1984年高校生3年生だった私たちは体育の時間、創作体操でショパンの『軍隊ポロネーズ』の曲に倒立前転や開脚後転、静止ポーズなどを組みあわせてひとりずつ発表しなければなりませんでした。体育館からは数ヶ月にわたりポロネーズがながれつづけ「水牛」というあだ名の体育教諭はサイトのロゴとおなじ色の口紅をしっかりひいて容姿はその名をうかがわせ、きゅるきゅるとカセットテープを何度も巻き戻していました。「軍隊ポロネーズ」がきこえると体操と紅い水牛をおもいだします。

教室で、国立大学のお兄さんとおつきあいのあるお友だちのひとりは「水牛通信」をちらりとみせながら、数年あとで知った「ペダンティック」ということばの感じをもってきどり、私は「Olive」(マガジンハウス刊)をかかえ悠治さんや榛名さんについてあれこれときいていました。

ひと学期に2、3回予告なく行われる登校時の校門検査では、水牛(先生)が生活指導係としての任務を全うしていました。かばんからはみでる「流行通信」やサイズの大きくなった「Olive」、LPレコードなど授業に関係のないものはいったん没収されました。が「水牛通信」は教科書のあいだにおさまっていたとおもわれます。

ショパンと水牛…悠治さん…まわしよみの『長電話』は卒業式までにまわってこなかった、そんな年でした。
先生は着任から退職までその名でよばれたそうです。