万華鏡物語(6)太陽はゆっくり昇る

長谷部千彩

 年に一度、区の無料健康診断を受ける。
人間ドックのほうが丁寧に診てもらえるのかとも思う。しかし、予約を取ろうと気にかけながら、十年以上ずるずると後回しにしてきた私には、受付期間がはっきり決まっている区のサービスのほうが適しているのかもしれない――届いた案内を手にそう考え、それから私にとって秋は健康診断の季節だ。

 健康診断には楽しみがひとつある。私が受診を申し込む大学病院には、院内のあちこちに絵が飾ってあり、診察を待つ間、そして診察が終わってから、それらを観てまわることができるのだ。コレクションの中には、私の好きな鈴木信太郎の作品も数点ある。特に気に入っているのは、びわの木を描いたもの。私は近づいたり離れたりしながら、じっくりと鑑賞する。そして、立ち去る前にその絵にカメラを向ける。私のスマートフォンの写真フォルダの中に、毎年一枚ずつ、びわの絵が増える。

 ささやかな贅沢を今年も味わった後、病院前の停留所からバスに乗り、駅に向かった。たまに駅ビルの本屋に立ち寄ってみようと思ったのだ。

 エスカレーターで五階まで上り、売り場に足を踏み入れる。最初に目につく棚に、おすすめの本が面陳列されている。コロナ、コロナ、コロナ。どの本も。私はたじろぎ、思わず身を引いた。まるでコロナ祭りだ。この数ヶ月を綴ったエッセイ、これからの経済について、感染対策、ニューノーマルの働き方、パンデミック、コロナ後の世界、あなたはどう生きる?どう生きる?どう生きる?並んだ表紙が一斉にこちらに詰め寄ってくるように感じた。あれ?まだ半年ちょっとだよね?そんなに大急ぎで考えなければ駄目ですか?そんなに大急ぎで書かなければ駄目ですか?だってまだ何もわかっていない。先行きだって全然見えない。誰にも見えてはいない。どうなってしまうのかなあ――そんな気持ちでとりあえず今日もマスクをして歩いている、少なくとも私は。
 編集者たちが商機を逃がすまいと企画書を書き飛ばしている姿が浮かぶ。緊急出版を目指し、キーボードを叩く作家たち。私が家に籠もっている間、みんな大忙しだったのか・・・。コロナ禍に関わる原稿を誰からも依頼されていない自分に一瞬不甲斐なさを感じたが、その後すぐに、三週間前、編集者Sさんと次の原稿について話し合ったことを思い出した。そうだ、私には私の仕事がある。それはコロナウィルスとは何の関係もないけれど。早く帰って書きかけのものを仕上げなければ。私は慌ててその場を離れた。

 その足で地下フロアに下り、スーパーマーケットでレタスを買った。外出自粛生活に入ってから、タコスをよく作るようになった。千切りのレタス、スパイスで味付けした挽肉、オニオンスライス、賽の目に切ったトマト、チーズ。それらをタコシェルに載せてサルサソースをかける。
 私のベランダでは今年の夏はシシトウがよく実をつけた。今年の秋は銀木犀がいままでになくたくさんの花を咲かせた。外出がめっきり減ったこの半年、毎日夕方になると淡く染まった西の空を眺めながら、ホースを片手に水を撒いた。でも、それは以前からもしていたこと。感染が収束した後も植物を育てている限り続く日課だ。

 変わったこともある。変わっていないこともある。コロナウィルスは私の暮らしに斑(まだら)に入り込み、その斑は水面に落としたインクのように刻々と動いている。
 いまはただ、その動きを見つめている。私の中に他人に語れる言葉はまだ生まれない。
 子どもの頃、走るのが苦手だった。徒競走ではいつも最後にゴールした。
私の太陽はゆっくり昇って、ゆっくり沈む。
 びわの絵の写真が増えるのは、一年に一枚だけ。
 まあ、いいか、こんなでも――それがコロナ禍の私を支えている言葉。そして、どう生きる?という問いに私が返せる唯一の答えだ。