言葉と本が行ったり来たり(16)『音楽は自由にする』

長谷部千彩

八巻美恵さま

 やってしまいました。自分でもいつかやるんじゃないかと思い、気をつけていたのにとうとう。
 いつものようにその夜もiPad miniを手にベッドに入り、Kindleアプリで本を読むつもりだったのです。新聞やSNSに目を通す日もあるけれど、その時間に私がするのは大抵読書。それが日々の楽しみだから。なのにふらふらっとウェブサイト記事を読み始め、その記事のリンクからAmazonに飛んで、そうするとおすすめの新刊などが表示されますから、それを眺めて、へー、今月の『芸術新潮』は坂本龍一特集なのか、『芸術新潮』って特集によっては即完売、入手困難になるよね、この号もそうなるのかなぁ・・・っていうか、え?芸新だけじゃない、この雑誌もこの雑誌も追悼坂本龍一特集、おまけに自伝も緊急(?)文庫化された、と・・・そうか・・・みんな教授が大好きなのね・・・私は・・・好きでも・・・嫌いでも・・・ない・・・けど・・・。この辺りでウトウトし始めて、きっと疲れていたのでしょう、気づくと朝。そして私のアドレスには、今月号の『芸術新潮』と文庫化されたという坂本龍一氏の自伝の注文確認メールが。え、どうして⁈ 私、ファンじゃないのに! 喉まで出かかったけれど、誰のせいでもない、私が悪い。ここまで簡単にネットショッピングできる時代になって、そのうち寝ぼけて注文なんてこともしかねない、普段からお財布の紐が緩い私だし、怖い怖い――そこまで予測していたのに。キャンセルすることも考えたけれど、既に発送作業に入っている様子。迅速すぎるのが恨めしい。仕方がない、己の行動には責任を持とう。覚悟を決め、届いた本『音楽は自由にする』のページを開くと、帯には「自らの言葉で克明に綴った本格的自伝」とあるものの、自叙伝ではなく、人生を振り返るインタビューを自伝風にまとめたものでした。

 ボリュームはそれほどでもなく、一日で読み終えたのですが、これが意外と面白くて。というのも、坂本龍一さんとは仕事の事務的なメールを数回やりとりしたことはありますが、直接お会いしたことはなく、先に書いた通り、彼の音楽は知っているけれど、私生活には興味がなかったので(音楽家に対しても作家に対しても、私の興味が向かうのは作品だけで、ほとんど人柄に向かわないので)、だから、よく知らないひと、自分に無関係のひとの身の上話を聞いているようで、それが新鮮だったのです。バーでたまたま隣に居合わせた人が生い立ちを語り出したから、これも何かの縁と思い、最後まで聞いてみた、みたいな感じ。
 他人の人生を一方的に知るって何だか変な気分です。聞いたところで影響を受けるわけでもない。でも、その距離感を以って聞く他人の人生は面白い。へー、とか、ほう、とか、心の中で感嘆しながら、世の中にはいろいろなひとがいるなあ、と思う。それ以上でもそれ以下でもない。ただ聞く、ただ知るだけの行為。それで終わるそれだけの行為。私はそれがわりと好きなのだと思います。逆に、文章に限らず、例えば映画でも、時々、登場人物に自分を強引に結びつけて没入し、号泣したり怒り狂ったりするひとがいるけれど、私はそういうのは苦手です。

 そしてふと思ったのですが、私が、ひとごとの距離感で聞く/知るという行為に面白さを感じる人間ならば、分厚さにたじろいで部屋の隅に積んだままにしているピエール・ブルデューの『世界の悲惨』も、案外するすると読めるのかもしれない(読む気が起きた)。友人が、岸政彦さんが編んだ、これまた鈍器並みに分厚い本『東京の生活史』を面白いと言っていたけど、それもひとごとの距離感で聞く/知る言葉としてなら読み通せるかもしれない(読む気が起きた)。

 話を戻すと、坂本龍一さんの本は東京の文化史のようにも読めました。入れ替わり立ち替わり登場するのが、三善晃、武満徹、大島渚、フェリックス・ガタリ、ベルナルド・ベルトリッチなどなど錚々たる顔ぶれで(この本にはものすごい数の人名が出てくる)、語りの中にそれをひけらかす感じは全くなかったけれど、とてもキラキラした物語になっています(10歳の頃に高橋悠治さんの公演を聴きに行ったという話も出てきます)。まあ、これは編集者がそういうエピソードを多く拾ったのかもしれませんが。ともあれ、政治家や財界人は別として、日本の文化人でここまでセレブリティであることを感じさせる自伝を出せるひとってそんなに多くない、と気づいたり。“世界のクロサワ”の評伝などは、どれももっと泥臭いですからね。

 今日は四月最後の日。お返事を待たずに書いてみました。「行ったり来たり」ではなく、「行ったり行ったり来たり」になるのも良いかな、と思いまして。
 それでは、また。今月こそはお会いしたいです。マスクを外して。

2023年4月30日 長谷部千彩