言葉と本が行ったり来たり(20)『八ヶ岳南麓から』

長谷部千彩

八巻美恵さま

八巻さんが紹介して下さった『歳月がくれるもの』、早速、図書館で借りてきました。歩きながら目次を見ようとパラッと開いたページにあった一文が目に飛び込んできて、その瞬間、ほろほろっと涙がこぼれました。
田辺聖子さんの小説は一冊しか読んだことがありません。関西弁に馴染めないのです。私には異文化という感じ。でも、私が心から信頼している友達のひとりは関西生まれ / 関西育ちの女性で、悩み事があるときにはいつも彼女に会いに行きますし、私の好みは片岡義男先生のようなスタイリッシュな文体だけど、一方で田辺聖子さんの言葉に縮こまった背中をさすってもらったような気分になったのですから、馴染めないと言いつつ、本当は、関西弁の持つ柔らかさ、その柔らかさに触れる甘やかな時間を、私はよく知っているのかもしれません。

さて、最近は、というと、フェミニズムに関する本を続けて何冊か読みました。この分野について、もう一度文献にあたりたくなったのは、五十代という、女としての半生を振り返り、考察するのにちょうどいい年齢になったからだと思います(蔵書の中に大学時代に読んだボーヴォワールの『第二の性』を見つけ、あまりの物持ちの良さに我ながらびっくり!)。
それにしても、私の母よりも八巻さんのほうが、八巻さんよりも私のほうが、女性にとってマシな時代に生きているはずなのに、いまだに泥団子をぶつけられたような気分になることも多々。いったいどういうことでしょう。八巻さんもお手紙に、シングルマザーの貧困を一例に挙げ、「弱い者や少数者に皺寄せが行くような国のシステム」と書かれていましたが、上野千鶴子さんの本では、女性の貧困問題も含め、日本における多くの問題は「人災」であると断言されていて、私もその通りだと思います。

一方で、明るい気持ちをもたらしてくれた本もありました。『八ヶ岳南麓から』―これも上野さんのものですが、彼女が自身の暮らしについて初めて綴ったエッセイ集です。
この本を手に取るまで私は全く知らなかったのですが、上野さんは五十代のときに八ヶ岳に土地を購入し、別荘を建て、東京と行ったり来たりの二拠点生活をしているそうです。私もちょうど東京以外に居場所を持ちたいと考えていたところ。私の場合は海派なので、山ではなく海辺の街に憧れますが。
しかも上野さん、移動は自らハンドルを握って中央道を飛ばす車道楽なのだとか。いいね!を押せるなら三回押したい!私も運転が好きなので、同じ!同じ!と嬉しくなってしまいます。日産スカイラインGT4、ホンダCR‐Xデルソル、BMW Z4などなど、乗り継いできた車の乗り心地(運転し心地?)について書かれた章もあり、読んでいてワクワクしました(ガーデニングに挑戦してあっさり挫折したところも大笑い)。
この本は厳密にはフェミニズムの本ではありません。でも、五十代から始めても、あと十年、あと二十年楽しめるじゃないの、女ひとりでも!というメッセージに貫かれていて、家庭を持ったひと、持たなかったひと、子供を持ったひと、持たなかったひと、置かれた状況はさまざまであれ、さてこれからどうしよう、元気な時間はもう少しあるし、と考え始める私ぐらいの世代の女性に対するエンパワーメントというふうにも読むことができます。そして、実際にそういう生活を二十年やってみたよ、という体験記でもある本書には、自分にも何かやってみたいことがあったんじゃないか、いまからでもできるんじゃないか、と自問させる力がある。
田辺さんの本にも上野さんの本にも、短い一生なのだからやりたいことをやったらいい、と書かれていました。とはいえ、現実は難しい。遠回りばかり強いられる。自分だけ取り残されたような気持ちになる日もある。それは百も承知の上で、やっぱり私も思うのです。短い一生、やりたいことをやったらいい。そうありたいし、そう言いたい。
いまの時代、フェミニズムの分野には舌鋒鋭い論客がたくさんいて、口を開けばしどろもどろの私など出る幕はないと感じますが、あのひとは年をとっても好きなことをやっていたね―そう言ってもらえる程度にはなれるような気がします。女性たちが自分の人生を楽しんで、その姿を見せていく、それだって誰かの小さな力にきっとなるはず。そして、八巻さんも、私にとって、人生を楽しんでいるのを見せてくれる、そんな女性のひとりです。

2024年3月29日
長谷部千彩

言葉と本が行ったり来たり(19)『歳月がくれるもの』八巻美恵