八巻美恵さま
八巻さんのお手紙を受け取ったのは、ちょうど海岸沿いのハンバーガーショップでアイスティーを頼んでいるときでした。車を持つ暮らしに戻ってからは、休みの日は何冊かの本をバッグに入れて都心を後にする―それが私の楽しみです。
ちなみにその日、私が読んでいたのは『わたしに無害なひと』(亜紀書房 2020年)。出版された頃にいただいて、途中まで読んだものの放置していたチェ・ウニョンさんの短編集です(最近は、こういう半端になっている本を読み切るという「片づけ」をしています)。
八巻さんも読まれたかもしれませんが、『わたしに無害なひと』に収められている作品は、若さゆえの哀しみを描いたものが多く、読んでいるとせつなくなってしまいます。
でも、自分のことを振り返っても、いや、たぶん誰しもそうだと思うのですが、10代、20代前半ぐらいまでって、大人が考えるほどキラキラもしていなくて、むしろ、むき出しの心が吹きさらしの状態で置かれている感じ。少なくとも私は、あの頃に戻りたいとは思わない。
《人って不思議だよね。互いを撫でさすることのできる手、キスできる唇があるのに、その手で相手を殴り、その唇で心を打ちのめす言葉を交わす。私は、人間ならどんなことにも打ち勝てると言うような大人にはならないつもり。》(チェ・ウニョン「砂の家」より)
これは文中にあった一文ですが、こういう語りを読むと、うん、そうね、でも意外と多くのひとがそういう大人になっていくよね、とひとりごちたりして、眼前には快晴の海が広がっているのにしんみりしてしまい、ううう、若いってやっぱりつらい、と思いました。
そして、その翌日。八巻さんが紹介して下さった『欲望の鏡』 を入手。早速、港の見えるラウンジで一気読みしました。これは最高の本ですね!
SNSに対して、というか、Instagramに対してすっかり興味を失った私ですが、始めた頃はそこそこ楽しめていたものが、なぜいまや深入りしたくないものになってしまったのか、その理由がこの本にはきっちり分析・解説されていて、著者にお礼を言いたいぐらいです。ちゃんと理屈にまとめてもらえて嬉しい、ありがとう!
また、この本は写真論にもなっていますよね。いま流行している写真を、私は全然良いと思えなくて、ありとあらゆるメディアに流れ出てきたインスタ世界、気持ちわる・・・と引いているのですが、そのことについても79pー81pに書かれていた!引用されているビョンチョル・ハンの著作を次はぜひ読んでみたいと思っています。
そして何より痛快だったのは、「アン、72歳」のページ。
《「若い人たち、人生の真っ只中にいる人たちを見ると、こう思う。あなたたちの周りにあるものすべてが、おそろしく大切なものなんだよ!ってね」
「でも、自分にとっては、そんな大事じゃない気がする!実際なんにもすごく大事って思えない!ハハハ」》(リーヴ・ストロームクヴィスト『欲望の鏡:つくられた「魅力」と「理想』より)
まだ72歳まで時間があるけれど、私も段々同じことを感じるようになってきて、そう、大事だと思っていたことがいろいろあったはずだけど、大抵はどうでもいいことだったんだ、とわかってきた。何が年を取って良かったかって、そこをわかり始めたことです。大事なこともないわけじゃないけど、大事なことに比べ、大事じゃないことのあまりの多さよ!リーヴ・ストロームクヴィスト風につけ加えるなら、「ついでにいうけど、大抵のおじさんの話はそんな大事じゃなかった!ハハハ」。
上野千鶴子さんの、ボーヴォワールの『老い』の解説は、NHKの「100分de名著」のムックで読みました。八巻さんが読んだのは、月刊『みすず』での連載ですよね?内容は同じなのかな。気になる。ボーヴォワールの『老い』は随分前に買ったけど、先日、さあ読むか、と思い、書棚を探したら下巻しか見つからなかった。老いる前に蔵書の整理だけはしないとな、と考えていたところです。
2024年5月1日
長谷部千彩