大人げない話(2)続・ばらまき土産

長谷部千彩

パリで暮らしていた頃、オデオンという駅のそばにアパルトマンを借りていた。セーヌ左岸、パリ中心部。サン・ジェルマン・デ・プレからサン・ミシェルへ抜ける道り沿い。観光客の多いエリアとエリアをつなぐ道は昼夜問わず活気にあふれていた。

フランスは美食の国といわれるが、それはそれなりの値段を払えば、という話。日本のように一食1000円程度でそこそこ美味しいものが食べられるとはいかない。外で食べれば少なくとも20ユーロ。にもかかわらず、大した味ではないのだから残念な国だ。となると、料理に興味のない私でも、在仏中はおのずとキッチンに立つ回数が増えていった。当然、スーパーマーケットへ足を運ぶ回数も。

サン・ジェルマン・デ・プレのスーパーマーケット、MONOPRIX(モノプリ)へは、週に一、二度、訪れていただろうか。既に、観光客の多い地区、と書いたが、その店では、しばしば日本人観光客に出くわした。お菓子の棚、スパイスの棚、お茶の棚。限られた時間に焦っているのか、棚と棚の間を足早に歩く彼らは、滞在中の買い出しではなく、大抵は手頃なお土産を探しに来ている。
それにしても不可思議なもので、日本人観光客は海外にいると、まわりに同胞はいないと思い込むらしい。とにかく声が大きいので、日本人の私に会話は筒抜けだ。

「これ!ばらまきにちょうどいいじゃん!」
背後から聴こえたその声に、その日も思わず振り返ると、新婚旅行中とおぼしきカップルが床にしゃがみこみ、棚の下段に手を伸ばしていた。女がつかんだ箱には、一回分のサラダドレッシングが入った高さ五センチほどのミニボトルが数本収められている。ふたりのやりとりを聞くこともなしに聞いていると、それをバラバラにして何人かに配るという算段。その思い付きに得意気な女。傍らで男が「いいね、いいね」と頷いていた。

確かにミニチュアボトルが可愛いといえなくもないけれど―。
私には、そのドレッシングに馴染みがあった。エールフランスのビジネスクラスに乗ると、食事の時に、塩と胡椒、彼らが手にしているサラダドレッシングの小瓶がテーブルに並べられるのだ。
―それ、渡す相手によっては、機内食で配られたものを流用したって思われちゃうよ?
心の中でつぶやいてから、余計なお世話だわ、と慌てて言葉を掻き消すも、私の心配をよそに、ふたりは値段を確かめて、籠にドレッシングの箱をドサドサと放り込み始めた。

それにしても―。
ばらまき土産という言葉が使われるようになったのはいつからだろう。10年前にそういった言葉は存在していなかったように思う。それがいまでは、女性向けのガイドブックでは、必ずといっていいほどページが割かれているのだから、一般的には「ばらまき土産」は完全に定着した言葉であり、慣習なのだろう。その証拠に、パリのスーパーマーケットで「ばらまき」という言葉が聞こえてきたのは一度や二度ではなかった。そして、その殺伐とした響きを耳にするたび、私はぎょっとして反射的に振り返ってしまうのだった。

かねてから、日本には、出張や旅行の後、みんなで分けられるようなお土産を職場に持って行くという慣習はあるにはあった。しかし、そのふるまいは、「気遣い」という、もう少し控えめなものだったはずだ。それがいつしか「ばらまき」と名前を変え、そのむき出しな語感に呼応するかのように、一段階、ガサツな物のやりとりへと落ちて行った。
あの「ばらまき」土産を受け取ったときの味気ない感じをどう表現したらいいのだろう。望まぬことに巻き込まれたようなもやもやした気持ち。釈然としない感じ。そんなやりとりをするぐらいなら、いっそ何のやりとりもないほうが潔よいとさえ思うだが、それは私だけだろうか。
その一方で、もうひとりの私がこう呟く。
―でもさ、「ばらまき」にしても気遣いにしてもやってることは同じだよね。配って歩くものにしたって、チョコレイトとかそんなものでしょ。ならば、「ばらまき」だろうが気遣いだろうが所詮は同じものじゃない?
確かにそうなのだ。それなのに、何だろう、このぬぐえない不快感は。ああ、悩ましき、ばらまき土産。それとも、こんな言葉ひとつに傷つくのは私が大人げないからだろうか。