大きすぎるセーター

植松眞人

 彼女の着ているセーターが少し大きすぎるのではないかと思った。とても暖かそうだし、きれいな発色だし、ふわっとした綿毛で覆われたような質感も上品だし、すべてが申し分ないと思うのだが、少し大きすぎるのではないかと思った。
「そうかしら」
 彼女はそう言って、僕の部屋で鏡を探した。僕の部屋の鏡は洗面台にある薄汚れた鏡だけだ。彼女はそれを思い出したのか、玄関の脇にある洗面台のほうへ行く。
「そうかしら」
 今度は鏡に自分の姿を映しながら言っているらしい。
 洗面台にある鏡は、歯を磨いた後で、ちょっとしみるところが虫歯になっていないか確かめたり、ぼさぼさの髪の毛に水をつけて納めたりするときに使うものだ。彼女の全身を映し出して、セーターが大きすぎないか確かめるためには、少しサイズが縦に足りない。
 彼女がどんなふうに自分の姿を、いつもは顔しか映さない鏡に映し出す工夫をしているのかは、ここからは見えないけれど、しばらくすると、また彼女の声が聞こえた。
「確かに、少し大きいかもしれないわ」
 そう言うと、洗面台のほうからかさかさと服と服が擦れるような気配がする。
「なにをしているの」
 僕が聞く。
 僕の問いかけに、彼女は言葉では答えずに脱いだセーターを洗面台のほうから放ってよこした。
「なにも脱ぐことはないよ」
 僕が言うと、
「大きすぎるセーターを着ているのって恥ずかしいわ」
 と答え、髪を整えながら彼女が洗面台から戻ってくる。
「だから、大丈夫だよ。誰も気付かないと思う」
 そう言ってから、僕はそれは嘘だと思った。
「それは嘘だわ」
 彼女は僕が思ったとおりのことを言う。
「あなが気付いたのに、他の誰も気付かないなんてあり得ない。むしろ、あなたが気付いたくらいだから、世の中のほとんどの人が気付くくらいに大きすぎるんだと思うの」
「そうだね」
 そう答えるしかなかった。でも、だからって脱ぐほどだとはやはり思えなかった。
「だけど、脱がなくてもいいと思う」
 僕が言うと、彼女は笑う。さっき、大きすぎるグレーのセーターを脱いでしまったので、彼女は急にやせ細ってしまったように見えた。まるで、毛を刈られてしまった羊のように思えた。
「大丈夫。前にこの部屋に置いて帰った赤いセーターがあるから、あれを着ればいい」
 彼女はさっき脱いだ大きすぎるセーターを椅子の背もたれにかけると、僕の小さなクローゼットを勝手に開けて、赤いセーターを取り出して着た。僕はその赤がとても彼女に似合っていると思った。
「似合う」
 と僕はつぶやいた。つぶやいてから、でも、以前のほうが似合っていた、と思った。彼女が赤いセーターを着てきたのは確か、ちょうど一年前の今日、彼女の誕生日だった。二十代最後の誕生日を迎えた彼女は「もう若くないのよね」と言いながら、とても若くて見えた。そして、この赤いセーターはまるで彼女に着てもらうためにそこにあるかのように見えたのだった。
「似合うってなんだろう」
 と彼女がつぶやいた。セーターが彼女に似合っているのは確かだけれど、似合うってどういうことなのかは、僕にはわからない。
 それよりも問題は彼女がまだセーターの大きさを気にしているということだ。
 果たして今度は赤いセーターが自分のサイズにぴったりなのかどうか、彼女には確信が持てないようだった。
「似合うということは、サイズがぴったりということなのかな」
 彼女は僕に聞く。
「でも、さっきのグレイのセーターのほうが、君に似合っていると思うな」
「サイズが大きすぎても?」
「そう、サイズが大きすぎても」
 彼女はしばらく、自分が着ている赤いセーターと、脱いだグレイのセーターを見比べたり、さわってみたりしていたのだが、ふと手を止めると僕の前に座り込んだ。
「ねえ、本当にサイズが大きすぎても私に似合ってた?」
「うん。似合ってたよ」
 僕がそう言うと、彼女はぼんやりと椅子の背にかけられたグレイのセーターを見やった。そして、彼女は自分が着ている赤いセーターと椅子の背にかけられたグレーのセーターの両方に手をふれながら黙り込んだ。
「ごめん」
 僕が謝ると、彼女はしばらく黙っていたあとで言う。
「これから出かけようというときに、セーターが大きすぎると言われた人の気持ちなんて、あなたにはわからないわ。そして、その後に、別の赤いセーターを着て、似合うと言われた人の気持ちも絶対にわからない」
 そう言って彼女は僕をまっすぐに見た。
 確かに出かける直前に着ていこうと思っていた服のサイズがおかしいと言われたら、僕だって気分が悪いに違いない。
「ねえ、どうしたらいいだろう」
 僕が許しを請うように言う。
 そして、青く晴れ渡った春めいた休日に、どこにも出かけず、赤いセーターを着て、大きすぎるグレイのセーターをぼんやりと眺めていることこそが、彼女に似合っていることだとふいに思ったのだった。そのことに彼女も気付いたのか、彼女の口元が少し微笑んでいるように見えた。(了)