万華鏡物語(7)心地よい生活

長谷部千彩

 ページをめくる。え?
 ページをめくる。あれ?
 さらにページをめくる。めくる。めくる。
 私は軽い衝撃を受ける。この雑誌だけだろうか。それとも他の雑誌もこうなのか。

 ヘアサロンでは、持参した本を読むことにしている。今日もエッセイ集を一冊読破するつもりだった。だから、鏡の前に置かれたファッション雑誌に手を伸ばしたのは、ほんの気まぐれだ。
 登場する人々はみな、コロナ禍で暮らしを見直したと語っている。新たに取り入れた習慣とやらを披露する。
 早起き。植物への水遣り。健康的な食事。午前中に部屋の掃除。ドリップ式で淹れる珈琲。週に一回花を買う。公園への散歩。寝る前の読書。
 新たに、と意気込む割には、たいした習慣ではないなと思った。それにまるで小学生の夏休みみたいだ。登校する必要がないのに、早朝に起こされ、ラジオ体操に行かされた記憶が蘇る。いま考えれば、休みの間ぐらい、ゆっくり起きてのんびり朝食でも良かったのに。規則正しくというのは、それほどの美徳なのだろうか。最低限やらねばならないこと以外は適当に、というのは悪徳にあたるのだろうか。

 小学校では、何かにつけて生活を振り返るよう促されていたように思う。目標を立てさせられ、子どもだからすぐに忘れて、後から、達成できていない、ここがダメだったから、これからはこう頑張ろうと思います、と、年中そんなことを言わされていた。目標なんてなくても生きていけるのに。
 合点がいった。ああ、そうか、大人になっても、何かあれば生活を見直し、何かを始める、それを繰り返しているのかもしれない、日本人は(他の国のことは知らない)。そしてそれを良いことだと信じている。

「みんな見直しが好きすぎると思うの。むしろ本当に見直してもらいたいのは政府よ。政治家よ。なのに見直すべきひとは全然見直さない」――私がそう呟くと、背後に立つ美容師さんが鏡の中で笑った。

 家に帰るなり、私はiPadを手にサブスクリプションサーヴィスを使って他の雑誌の内容をチェックし始めた。ファッション誌やライフスタイルマガジン、私が以前好んで読んでいた雑誌。そのどれもが「心地よい」暮らしを提案する特集を組んでいた。
 極端なまでに物の少ない部屋。大きな木製のテーブル。apple社製のノートPCが開かれ、部屋の主(あるじ)が背筋を伸ばして椅子に腰掛け、キーボードに手を載せている。それが女性なら、服は大抵紺か白。PCの脇にはマグカップ。たぶん珈琲が入っている。部屋の隅には鉢植えの植物。恐ろしいほどそっくりなインテリアの写真が、どの雑誌にも掲載されていた。
 いまの時代はどうやら「物がない状態=心地いい」ということになっているらしい。確かに物がなければすっきりして見えるけれど。楽しくない。ページをめくっても全然楽しくない。何もない部屋を雑誌で見せられる意味って何だろうと思った。だいたいそんな部屋で外出自粛生活を強いられたら、絶対に退屈してしまう。そう感じるのは私だけだろうか。家から出られなくても、マスクを外せなくても、楽しく過ごす方法はいくらでもあるよ、ほらこんなに!――そんな風に語りかけるひとはいないんだな、と寂しく思った。

 今年の私。モロッコ旅行はキャンセル。香港にも行けなかった。行動が制限されたのは事実。でも、つらいことばかりではなかった。我慢ばかりでもなかった。たくさん映画を観た。たくさん本やマンガを読んだ。たくさん音楽を聴いた。たくさん買い物をした。そしてたくさん仕事もした。達成感のある仕事。不完全燃焼の仕事。何人ものひとと知り合い、そのうちの数人とは意気投合し、そのうちの数人とは心の中で絶交した。美味しいものも時々食べた。ウーバーイーツで気になっていた店から食事を取り寄せるのは楽しかった。自分の料理には正直飽き飽き。困っていそうなひとのために時々募金をし、街頭に立つ男性からビッグイシューを買った。パンプスの代わりに増えたスニーカーは六足。部屋でつけていた香水はゲランのアクアアレゴリアだ。いろいろと調べてみたけれど、感染しないために、そして感染を広めないために私ができるのは、結局、マスク着用と手洗い、ひとに近づくのを控えること、それだけだった。ならば、それを守ったら、あとは面白おかしく暮らしたい。それでいいと思っている。

Sさんは、テレワークに切り替わって、始業の5分前まで寝ていられるのが幸せと言っていた。
Yさんが最近読んでいるのは『「健康」から生活を守る』という本だと言う。
小学生の姪に、休校中、学校に行けなくて寂しいかと尋ねたら、「全然!」という声が返ってきた。
私の大好きなひとたち。
私に健やかさをもたらしてくれるひとたち。
彼らは生活を見直してはいない。