アジアのごはん(18)ココナツミルクの誘惑

森下ヒバリ

バンコクではいつもプラトゥーナムという地域に泊まっている。初めてタイに来たときから、だいたいこの周辺に宿を取っている。どうもプラトゥーナムから抜け出せない。もう少し違う場所にも泊まってみようかとも思うが、二の足を踏む。それは、宿の近所のラーン・カオ・ケーン、日本では一膳飯屋とでも言おうか、おかずかけごはん屋さんのせいに違いない。

近所のごはん屋さんは毎日、朝から午後一時か二時くらいまで開いている。ガラスケースの中には五、六種類のおかずがトレーに入れられて注文を待っているが、十二時ともなると、すでに人気のおかずは売り切れて、残りはほんの一、二種類。
「しまった、取り置きしといてもらえばよかった・・」

用事をしたりして、少し遅くなると目当てのおかずがなくなっていることは珍しくない。もっと大量に作ればいいのにとも思うが、この店のおばちゃんは淡々と同じ量のおかずを作り、売り切れたらおしまい。最近はあんまりくやしいので、昼ごはんを少し早めに食べるようにしたほどである。つまり、それほど、この店の料理はおいしい。

作り置きのおかずなど、正直言っておいしいとはあまり思っていなかった。以前は、その場でさっと炒めたり、揚げたりしてくれる注文料理屋が最高で、昼もそういう店に行っていたのだが、この路地のおかずかけごはん屋さんに出会って、すっかり考えを変えてしまった。

もちろん、この店のシェフのおばちゃんの腕がすばらしいのが大きな理由だが、作り置きおかずかけごはん屋にもいいところがたくさんあることに気がついたのである。まずは実物を見て注文できることと、名前の知らない料理や食べたことのない料理を食べられることにある。また、以前食べて、今ひとつ、と思っていた料理に改めて開眼することもある。

注文の仕方はこうだ。皿にごはんを盛ってもらい、その上に好きなおかずを選んでのせてもらう。この店では一種類だと15バーツ、二種類で20バーツ。三種類で25バーツが基本。指差しであれとこれ、と注文できるのでタイ語ができなくてもだいじょうぶ。さらに、スープもののおかずなどを碗に入れてもらって別皿にすることもできる。

「今日は・・もやし炒めと・・う〜ん、何かなこれ」
ごはんの上にもやし炒めと、鶏肉とキノコの入ったスープのようなものをかけてもらった。はじめはトムヤム・スープかとも思ったがカレーのようにも見える。口に入れてみると、さわやかな酸味とココナツミルクのとろみと微かな甘み。後から辛味ががつん。
「うん、おいしい! あれ、これってもしかして?」

店のおばちゃんに聞くと、トム・カーだよ、と答える。スープの正体は、トム・カーと呼ばれるココナツミルク・スープであった。だが、今まで食べたことのあるトム・カーのどれよりも素晴らしくおいしいではないか。トム・カーはカーという生姜の一種の南姜(なんきょう)を味のベースにして、ココナツミルクをたっぷり入れて鶏肉などを煮込んだスープである。だいたい、ココナツミルクが多すぎて甘ったるくどろんとしていて、おいしいと思ったことはあまりなかった。

この店のトム・カーは、南姜のほかに、レモングラスとトウガラシが入っていて酸っぱくて辛くて、ほのかに甘い。酸っぱくて辛くて、といえばトムヤム・スープとどう違うの? と言われそうだが、こちらの味の主役はやはり南姜とココナツミルク。トム・カーとは、辛いのが苦手な観光客やお子さま向けの甘ったるい料理、というイメージをあっさり崩してくれた。
「トム・カーってこんなにおいしいスープやったんや〜」
わたしはうう〜んとうなりながら、トム・カーをのせたごはんを食べた。ココナツミルクのコクとかすかな甘み、レモングラスの酸味と南姜のピリッとした香りとが絶妙のバランス。はあ、しあわせ。料理というのは、ほんのちょっとしたさじ加減で、快楽の味になり、また苦痛の味にさえなる・・。

トム・カーによく似たスープがお隣のカンボジアにもある。いや、むしろ、カンボジアの方が本家であろう。レモングラスとココナツミルクと鶏肉のスープや、またアモックという魚介類をココナツミルクで甘酸っぱく煮たものもある。これはタイではホーモックといい、魚介のすり身にココナツミルクをまぜて蒸したものだが、カンボジアで食べたものはまったくのどろりとしたポタージュ状のタイプであった。

しかし、とにかくカンボジアのココナツミルク入りスープの類は、とてつもなく甘い。ココナツミルクがたっぷりと入っているのだが、さらにヤシ砂糖なども大量に加わっているかもしれない。お菓子のようだ。タイ料理にもけっこう甘みの利いた料理は多いが、カンボジアはタイよりもさらに甘い料理が多い。ココナツミルクを大量に使うし、チャーハンや野菜炒めに甘みとしてパイナップルを入れたがる。トムヤムに似た酸っぱ辛いスープにもパイナップルを入れる。わたしは、このパイナップルを料理に入れるのが大変苦手で、というか正直言って大嫌いである。好きだという人もいるので、まあ、これは好みの問題もあるとは思うが、ナムプラー味のチャーハンや野菜炒めにパイナップルを入れるという感性は理解不能である。パイナップルは、そのまま食べるに限る。
つい、パイナップル問題に力が入ってしまったが、ここで話題にしたいのはココナツミルクなのだ。ココナツミルクは、いまやタイ料理にもよく使われるが、実はもともとものタイ料理にはなかった素材である。

タイ族は3世紀ごろから11世紀にかけて、中国西南部・ベトナム北東部あたりから大規模な移住を繰り返して現在の地に落ち着いた民族だ。まず中国雲南省南部、ラオスとタイ北部、ビルマ東北部のシャン州、かなり遅れてタイ中部へ進出した。そして、進出した先にはたいがい先住民族が居たので、先住民とあるときはまあまあ平和的に、あるときは武力で服従させて自分たちが主導権を握ってきた。その先住民族を皆殺しにしたりはせずに、自分たちの中に取り込んでタイ族化させてしまうのである。と、同時に相手の文化も惜しみなく吸収する。

そんなタイ族が、インドシナ半島を南下して行く中で高度な文化を持っていたモーン族とクメール族にぶつかった。モーンは現在のタイ王国の中部から南部、そしてビルマの東南部にいくつかの国をつくっていたし、クメールは現在のカンボジア、タイ東北部の南部、ベトナムのメコンデルタ地域に勢力を持っていた。かれらは、モーン・クメール語族と言語学的にも分類されるように、タイ族とはかなり系統の違う民族で、インド南部やインドネシア地域の民族にルーツを持つ。また文化的にもインドの影響が大きい。

地域によって、その地の先住民族たちの料理が取り込まれてはいるが、中国の雲南省やビルマのシャン州のタイ料理、またラオス北部の料理はかなりもともとものタイ料理に近いと思われる。これらの地域ではほとんどココナツミルクを料理に使わない。もっぱらお菓子に使う。トムヤムの原型のような酸っぱいスープはあっても、ココナツミルクは入れないし、ココナツミルクたっぷりのカレーもない。料理はあまり甘くない。共通しているのは、もち米をよく食べること、魚を発酵させた調味料、そして発酵した肉・魚・野菜をよく食べること。酸っぱいものが大好きなこと。食べることを大切にしていること。

そんなタイ族の一派が南下して、現在の地にタイ王国を作り、先住の民から自分たちの料理に取り込んだのがココナツミルクなのだ。もちろん、亜熱帯のこの地域にはココナツミルクの元になるココヤシをはじめ、アブラヤシ、砂糖ヤシと有用なヤシの木がたくさん生えている。当然ながら先住の民たちはヤシの利用に長けていた。

そして、彼らがヤシから取れるココナツミルクや花蕾から取れるヤシ砂糖の甘みを深く愛していたことは、モーン・クメールの文化を大量に取り込んだタイ族=現在のタイ王国のタイ人たちが、ほかの地域のタイ族たちから見て過激なほど甘党なのからも、明らかというものでしょう。