アジアのごはん(32)ナム・プリック

森下ヒバリ

なんとか料理の腕が戻ってきた。
ひと月、ふた月の長さで旅行して、その間ほとんど料理をしないでいると、見事に料理の腕がにぶる。味付けのポイントをはずす。煮方や火の通し方のコツを忘れている。料理の手順がヘンテコ。ということの繰り返しで、なにかぼんやりとした味の料理がもたもたとできあがってしまう。う〜ん、いかん。だから、旅から戻ったばかりのわが家にはあまり遊びに来ないほうがいいとは思う。でも帰ってきたばかりは、新鮮なタイカレーペーストやハーブ、トウガラシや粒コショウ、お茶などいい食材も揃ってはいる。しかし味のぼけた和食を食べさせられる確率のほうがだんぜん高い。一日読書をしないと頭が悪くなる・・という話があるが、料理を毎日しないということの威力もすさまじい。

だからといって、タイを中心としたアジアの旅では、自炊しようという気にはほとんどならない。タイや周辺諸国の料理はとにかくおいしい。現地の料理を食べるためにその国を旅しているようなものなのである。バンコクに行ったら月ぎめで借りるアパートホテルには、流しはあるものの、調理器具もコンロもない。だいたい、バンコクの友人たちのアパートもそうだが、いわゆるタイのアパートには台所というものが付いていないことが多い。

はじめは、なんで台所がないのかふしぎだった。台所は生活の要じゃないの? しかし、アジアの都市部、とくにタイの外食事情はたいへん恵まれている。24時間どこかでなにかが食べられるほか、お持ち帰りの出来る惣菜屋さんもたくさんある。その料理の味のレベルも高いし、安い。中華料理の影響で、野菜料理も多いし、いろいろ味や食材の注文もつけられる。もちろん、ちゃんと自炊している人もいるが、ごはんを炊いて卵だけ焼いて、後のおかずは買って来る・・式の半自炊者が都市部では大半ではないか。働いている人などは、休みの日だけゆっくり料理するが、平日は買ってくるか食べに行く、という人が多い。もちろん、まったく自炊しないという人もたくさんいる。

同じように、自分で料理せず外食や出来合いに頼る食生活でも、日本のコンビニ弁当やコンビニ・スーパー惣菜で構成される食生活と、タイの外食や屋台や店売りの惣菜で構成される食生活は、まさに天国と地獄ほどの差。旅行者にとってもシアワセである。

おいしいアジアの食を日本でも活かすために、アジアの旅から日本に戻るときにはいろいろなスパイスやハーブを買い込んで持ち帰ることになる。ヒバリが必ず持ち帰るのは、生の極辛トウガラシのプリック・キーヌー、タイのレモンのマナオ、そして生のトウガラシを潰したトウガラシ・ペーストの「ナム・プリック」である。トウガラシは日本のものとは味や香りがちがうので、やはりタイ産でないと。

まずはタイの極辛トウガラシ、プリック・キーヌーを輪切りに刻んで魚醤油のナムプラーに漬け「プリック・ナムプラー」を作る。魚醤油のナムプラーは京都でもタイ製のイカ印がすぐに手に入る。1ミリから2ミリぐらいの幅にコトコト刻み、ジャムなどが入っていたビンに三分の一ほど放り込み、上からナムプラーを口まで注げばおしまい。これで辛くて香り豊かな「プリック・ナムプラー(トウガラシ魚醤油)」の出来上がり。炒め物などに大活躍。

プリック・ナムプラー製作の次は、タイのレモンであるマナオ(ほんとうは持ち込みしてはいけません)を使って甘辛酸っぱいタレをつくる。材料はマナオのしぼり汁、ナムプラー、さとう。割合は1:1:0.2〜0.3ぐらい。さとうは三温糖がいい。これは、タイ料理の辛くて酸っぱいサラダ、ヤムの調味料である。タイ人は作り置きしないが、日本ではマナオや味の近いかんきつ類がいつも手に入るわけではないので、わたしは作り置きしておく。水が入らないので、かなり長持ちする。マナオがないときは、すだち、かぼす、ゆず、夏みかんなどを使うといいが、ずいぶん香りが違う。レモンでもいいが、味と香りがきつすぎるので他のかんきつ類も混ぜるといいかも。

このタレは、そのままタイふうサラダのドレッシングにもなるし、オリーブオイルと和えてイタリアンサラダのドレッシングのベースにだってなる。というか、うちのサラダの味のベースは、はっきりいってほとんどこのタレである。まずはサラダの材料にオリーブオイルをかけて混ぜ、それからこのタレをちょっとだけかけて和える。好みでさらにレモン汁をしぼったり、塩や酢を足したり、材料や気分によってアレンジする。

我が家のメインディッシュは、冬は湯どうふ、夏は野菜たっぷりサラダであるので、夏、いや寒くなるまで、ほとんど毎日のように大盛サラダを作る。毎日のように食べるから、味つけも材料も微妙に変える。でも、味のベースにこのタレがあると、おいしさの核心みたいなところがピシッと押さえられていて、実に頼もしい。このタレ、自家製ドレッシングの素、とでも言おうか。タイ好きの出雲のヨネヤマさんがさっきうちに来て昼ごはんを食べて行ったが、タコとアボカドと豆のサラダをたいそうお気に召した様子。「その味のベースはナムプラーなんだよ〜」と教えると「え〜、ぜんぜん気が付かなかった〜」とびっくりしていた。

トウガラシ漬けナムプラーを作り、ヤムのタレを作り、さて次は。タイの市場で買ってきたトウガラシ・ペースト「ナム・プリック」をビンに移し変え、冷蔵庫にしまう。ふう〜、これでしばらくはおいしい食生活が保証されるぞ。ナム・プリックとは、ウエットな状態のトウガラシ加工品のタレやつけ味噌のことであるが、ヒバリの愛用している市場の手作りナム・プリックの成分は、シンプルだ。やや荒めに潰した生トウガラシ、かすかな塩、ニンニクの潰したもの少々。生トウガラシは、プリック・チーファーという種類の、日本の鷹の爪ぐらいの大きさのトウガラシである。プリック・キーヌーほどではないが、やはり辛い。それをすり潰してあるので、これは炒め物などの辛味付けに最適である。ラーメンに入れても最高。しかも、ただ辛いだけでなく荒めにすり潰して塩を加え、おいてあることで微妙に発酵して、じつにウマイ。その場で生トウガラシを潰して料理しても、フレッシュでうまいのだが、このペーストはまたなんともいえないコクがある。

ところで、今回の旅の前に名古屋の友人のタナカ嬢から「あのトウガラシ・ペーストを買って来てえ〜」と懇願された。タナカ嬢は去年タイに一緒に行き、バンコクで市場に寄って、いつもヒバリがひいきにしている店で同じナム・プリックを買って帰ったのである。

「そんなに気に入ったの?」「あれ、激ウマだがね。ほんで、炒め物とかもいいけど、冷やっこに乗せて、醤油をかけて食べたらもう、たまらんのよ」「げっ、あれを冷やっこに!? そ、それは、ちょっと過激な辛さじゃないの?」「いやあ、辛いけど、もう麻薬的なうまさっすよ。もう、残りがないの。あれがないと生きていけない。大変だろうけど、お願い買って来てっ」「わ、わかった・・」

こうして、今回はいつもの2倍の量のナム・プリックをカバンに入れて帰国することになったわけだが、それを渡したときのタナカ嬢の喜びようといったら。で、その冷やっこのナム・プリック乗せの味だが、じつはまだ試していない。もし、試してみて激ウマだったときには、わが家での消費量が2倍に増え次回からタイであのトウガラシ・ペーストをこれまでの3倍ぐらい買うことになるのかと思うと、二の足を踏む。

日本の空港から家に戻る途中、ニンニクの香りがもれ出して、帰りのバスの中で肩身がせまいのだ。けっこう水っぽいし、袋が破れたらカバンの中は大惨事。今でさえ、料理にはこれがないとだめなのに、さらに消費量が増えるとなると・・でも、おいしいんだろうなあ・・やっぱり、あんなに喜んでたし・・うう、どうしよう・・。