最後のメキシコ便り(33)

金野広美

長い間みなさんに読んでいただきましたメキシコ便りもこれが最後、私は今帰国の途につきアトランタでの16時間の待ち時間に最後のメキシコ便りを書いています。

メキシコに来た時には全くいなかった友人も今ではたくさんでき、一人ひとりとの別れの挨拶はとてもつらいものでした。いつも大学のキャンパスで会話の練習にと時間をとっておしゃべりをしてくれた、インディヘナ・アートのクラスの友人アドリアーナ、トイレでさいふを拾ったことから友だちになり家族ぐるみのつきあいをしたバネッサ、「今度はいつくるの」といつも聞いてくれ、メキシコ料理の作り方を教えてくれたデルフィーナ、「メキシコの歴史と政治」のクラスで知り合ったラウラはメキシコの現状や問題点について、常にわかりやすく説明してくれました。また私のクラスに教育実習に来て親しくなったタニアは毎回進級のためのオーラルテスト(みんなの前で5分間話すもの)の下書きを添削してくれました。全過程を無事に終了できたのも彼女のお陰だと思っています。また、日本語とスペイン語をお互いに教えあい両国の文化について語り合ったエマ。サルサ教室で知り合いよく一緒にディスコに行ったロサルバとアロンドラ姉妹。私のアパートでトラブルが起こった時、助けてくれた、となりのマリオ。そして若いミゲルは私にメキシコの負の部分も知って欲しいと貧しい人々が住む地域に彼のお母さんとともに案内してくれました。

彼のお母さんは通りで物売りをする母親のために寄付を募り、保育所を建設し運営しています。ミゲルは保育所で子供を預からないと子供が通りに放り出され、いつしかドラッグに手を染めてしまうといいます。彼はその保育所でギターを教えたり、そこで開かれるさまざまな勉強会に積極的に参加したりしながら、保育所運動の必要性をいつも熱っぽく語りました。若い彼が一生懸命に少しでも社会をよくするためにと活動している姿は、とてもすがすがしく頼もしいものでした。そんなミゲルがある日、メキシコ・シティー近郊のトルーカにあるプレイスパニコ(スペイン人がメキシコにやってくる前の時代)から続いているテマスカルと呼ばれるサウナ風呂につれていってくれました。

大きなセメントで作られた直系5メートル位の円形のサウナで、中央で炭が燃やされます。約50人位の人が中に入り壁に沿って座ります。家族連れもいて7ヶ月位の赤ん坊もいます。そしてなにやら巫女のような人のお祈りのあと中は真っ暗になり、笛や太鼓の激しい音が鳴り出しました。すると赤ん坊が激しく泣き出しました。それは当然です。真っ暗な上に赤ん坊にとっては恐ろしげな音楽なのですから。そして20分たつと明るくなり、音楽も止み、赤ん坊も泣き止みました。他の人たちは汗だくになり外で水をかぶったりしています。

20分サウナ、10分休憩を4回繰り返すのだそうです。私は赤ん坊のお母さんは外に出てきっとそのまま帰ってこないだろうと思っていましたが、彼女はまた赤ん坊を連れて中に入ってきました。そして再び真っ暗と激しい音楽、赤ん坊の泣き叫ぶ声、私はリラックスするどころか、たまらなくなって耳をふさぎました。

20分が過ぎ私はミゲルに「なぜあのお母さんは子供があそこまで泣き叫んでいるのに平気なの? そして他の人たちはなぜ誰も注意しないの?」と聞きました。するとミゲルは「あの家族はこの辺りに住むインディヘナだけど彼らとは文化が違うのだよ」といって、自分は熱すぎて4回も入れないからと出て行ってしまいました。私はその答えに納得できないままサウナに残りましたが、またもや始まる激しい泣き声。思い余って次の休みに赤ん坊の母親に「あなたの赤ちゃんはこんなに怖がっているのに、どうして泣かせたまま放っておくの」と聞きました。すると彼女は「ずっと抱いているけど泣き止まないのよ。子供は泣くものだから」と平然というのです。私はその答えにびっくりしてミゲルにいうと彼は「さっきも言ったように彼女たちはずっとそう考えて生きてきているんだし、イスラムの人たちが豚肉を食べないのと同じで文化が違うのだから」といいます。

しかし、私はこれは文化の違いの問題ではないと思うのです。それは彼女に子供の気持ちを考えるという思考方法がないからで、これは教育の問題だと思うのです。確かにそれぞれのインディヘナたちの持つ文化、習慣を重んじるというのは大切なことですし、文明の名のもとに進める近代化がすべて良いとも思いません。しかし、こればかりは違うと思います。子供にとって幼いころの恐怖体験は、きっと心に傷を残すし、そんな子供の心理を学ぶという教育が彼女たちには必要だと思うのです。

このできごとにも見られるように、メキシコには教育の欠如、不備による多くの問題があります。平気でゴミを道端に捨てる人、最後まで責任を持って仕事をしない人、駐車場と化している道路でこずかい稼ぎをする警官、いつまでたってもなくならない政治家の腐敗、保身と蓄財しか考えていない労働組合の幹部などなど、いいだしたらきりがありません。

親が子にしっかりと人間としてのエチケットやマナー、責任感について教えられない家庭教育。また、学校の施設が足りないため午前と午後の2交代制で十分な勉学の時間がとれない学校教育。こんな中では人間としての豊かな感性を磨き、人としてどう生きるべきかを学ぶための時間などは当然削られてしまいます。そして、ただ同然の国立大学(ちなみに私の通っていた大学はメキシコ人なら年2ペソ、約16円です)は、あまりにも狭き門で、私立は高すぎるという大学教育の現状、メキシコではわずかの秀才かお金もちでない限り大学まではなかなか進学できません。

これらのことをみるにつけ、トータルな人間教育がここでは十分できていないのだという気がしてくるのです。国の根幹をつくるのは教育だといわれますが、そういう意味ではメキシコはかなりお粗末な状況にあると思います。

この話を友人のラウラにすると、彼女は「メキシコは生まれて200年の若い国なので、まだまだ発展途上にあり国としての成熟が遅れているのよ」といいます。「え? 200年? メキシコには紀元前からの歴史や文化があるじゃない」というと彼女は「それらは文化遺産としては残っているけれど、スペイン人がメキシコを征服した時、私たちの歴史を証明するものはすべて焼き尽くされ、我々の歴史としてはスペインから独立した後の200年しかないのよ」というのです。うーん、なるほどそういう見方もあるのかと妙に納得させられてしまいましたが、そういえばミゲルも「この国が変わるにはあと3世代100年はかかる。スペインに征服されていた期間と同じ300年はかかる」といっていましたが、私は彼に「メキシコ人はなにごとにもゆっくりだからあと100年じゃ無理よ」なんて茶化したりしましたが、それにつけても300年に及んだスペインの征服。この征服がメキシコに及ぼした大きすぎる影響について別の友人のエマとこんな話になりました。

ある日、私が常日頃感じていたメキシコ人についての疑問をエマにぶつけた時のことです。その疑問というのはメキシコ人はとても我慢強いというか、なかなかお上に対して抗議行動をおこさないのです。いつまでも放って置かれている道路の大きな穴や、出っぱった杭、これらをを直すように役所に文句をいう人はいません。4日も5日も断水が続いても、水が出るまでだまって黙々と水運びをします。けた外れに荒っぽい地下鉄やバスの運転にも何も言わず耐えています。のろのろした役所の仕事ぶりにも長い列をつくってひたすら待ちつづけます。

私はエマに「いったいどうしてメキシコ人は我慢するの? なぜ抗議しないの?」と聞きました。するとエマは「抗議をしても無駄、何も変わらないとあきらめているのと、それにも増して権力にたてつくのが怖いという気持ちがあるのよ。そしてこの恐怖心は300年に及んだスペイン征服時にメキシコ人にすりこまれたものなのよ」というのです。そして「あまりに長い期間だったのでいまでもお上は恐ろしいという気持ちがなかなか消えないのよね」と続けました。うーん、そういえばメキシコ人はよく思い通りにならない時に、ニモド(仕方ないね)といいます。いつもこの言葉を使ってあきらめてしまい、あまりものごとを深く追究しようとはしません。そしてフィエスタで飲んで、しゃべって、踊って忘れてしまいます。

しかし、私は今はもうスペインの征服者は居ないし、おまけに現代に生きる人たちが、まだその恐怖を覚えているというのはどうにも納得できません。彼らがあまり抗議行動をしないのは恐怖心の記憶というより、私には別の理由があるような気がするのです。それはメキシコは1810年にスペインから独立しましたが、依然として、うっとおしい他国による征服状況は続いているのではないかと思うのです。というのはスペインは去ったけれど、代わりに米国が今、メキシコ経済を牛耳るという形で領主国のようになっているような気がするのです。大きなスーパーマーケットやホテル、レストランチェーンをはじめとしてたくさんの米国資本がメキシコに入り、利潤は米国に持っていかれます。そしてまた、危険を覚悟の上で多くの人が国境を越え、米国に出稼ぎしています。家政婦をしたり、工事現場で働いたりする彼らがメキシコに送金してくるドルはいまやメキシコ経済の大きな支えになっているのです。米国がくしゃみをするとメキシコは風邪をひく、といわれるほどメキシコの経済は米国によりかかっているのが現状です。スペイン人による破壊、略奪、暴力という征服のやり方とは変わりましたが、経済生活における相変わらずの他国による圧迫感と閉塞感があきらめの感情を呼び起こし、それがなかなかプロテストできない原因のひとつになっているのではないかと思うのです。

しかし、このラテンアメリカに共通する図式は今ブラジル、チリ、アルゼンチン、ベネズエラ、ボリビアなどの動きとあいまって少しずつ変化が現れてきています。困難さはともなうでしょうが、いつの日かメキシコがスペイン300年の呪縛と米国のくびきから解き放たれ、名実ともに明るい「太陽の国」になって欲しいと切に願います。

思えば2年5ヶ月前、メキシコに着いた時、言葉のできない異国で一人でやっていけるのだろうかという不安感と、しかし、来てしまったのだという開き直りが交錯する中での武者ぶるいにも似た感覚ではじまったメキシコ生活でした。

右も左もわからないまま行った大学はあまりに広すぎて入り口を探すだけで何時間もかかったり、構内バスに乗ったはいいけれど同じところを何度も巡回して地下鉄の駅にたどり着けなかったりと、散々な目にあいながらも私の学生生活は始まりました。先生のいうことはさっぱりわからず回りは欧米から来た若者ばかり。みんなよくしゃべり、理解できているように見えて何度も落ち込みました。彼らの何倍もやらなくてはついていけないと悲壮な気持ちになりましたが、逆にいうと何倍かやればついていけるのだと思い直し必死で勉強しました。毎日12時間はやったでしょうか。私は今60歳、世に言う還暦です。友人たちは記憶力がなくなってきた。集中力が落ちてきたと嘆いていますが、私は自分でもびっくりするほど記憶力が増し、若いころより数倍も集中して勉強できるようになりました。メキシコに来るまでは能力低下を年のせいにする傾向がありましたが、今では若いころに流行した根性論ではなく本当に「やればできる」と思えるようになりました。やりたいことに対する深い思いとそれをやれる環境をどうつくれるかで、いくら年をとっていても「やればできる」のだと思えるようになりました。もちろん強靭な身体に産んでくれた両親に感謝しつつ、この自信でこれからはあまりいいわけをしない人生を歩んでいきたいと思っています。

時にはメキシコ大好き、時にはメキシコ大嫌いとさまざまな思いが交錯したメキシコ生活でしたが、メキシコは私に学ぶことの喜びと大きな自信、そしてすばらしい友人たちを与えてくれました。私にとっては人生の中でもっとも充実した2年5ヶ月だったと思います。めまぐるしくいろいろなことがありましたが、今ではメキシコだーーーーーーい好きです。