墓に入る。訃報はくる。

仲宗根浩

なんだろう、去年十一月から近所で不幸ばかりが一月も続いている。去年最後はうちの兄だったが。クリスマスも吹っ飛びお通夜、納棺とあわただしい。葬儀の後に納骨のため墓に入ることになった。墓の中の広さは二畳以上三畳未満くらい。葬儀屋さん、お坊さんの指示にしたがい今まで墓の門番をしていた父親の甕を一段上にあげるため祖父、曾祖父の甕をすこし移動し、空いた場所に父親の甕を置く。父親の甕があったところに、火葬された骨が入った甕を受け取り置く。収骨から数時間経った甕はまだ暖かかった。父親の納骨のときと違い葬儀屋さんの指示でだいぶ今時というか負担にならないようになっている。

おめでとうはない正月を迎え、集まってご馳走を仏壇に供えた後、皆で食べる。三が日を過ぎると訓練が始まり戦闘機の音が大きくなる。老朽化のためF15は引退し新しい戦闘機に置き換わり一段と音が大きくなり回数も増えている。

昔、一緒に仕事した人とわずかにLineでつながっている。平井さんの命日だ、と書き込むと当時部下だった近藤さんから平井さん宅にお花を送り、奥様から電話があり昔話をしたと返信。そんなやり取りをしていてしばらくすると田川律さんの訃報が届く。沢井先生のとこで内弟子をしていた丸ちゃんからFacebookにアップされて知ったと。去年平井さんが亡くなってメール、携帯電話のショートメールを送ったけど返信が一切無かった。もうかなりやり取りしてなかったから仕方ないか、とおもっていた。最後に会ったのは東京で悠治さんが音楽を担当した映画の上映会だったから十五、六年前、もっと前か。昨年、平井さんが亡くなった時と重複するが、コレクタという事務所に出入りするようになった。その前後かどうかはっきり記憶にないが舞台監督田川律という人がいた。田川律という名前は知っていた。兄が買って来い、という雑誌が「ヤング・ギター」と「新譜ジャーナル」だった。その当時のフォーク、ロックの楽譜や記事が載っていて、パシリとなった小学生はそんな雑誌も読んでるうちに田川律という名前も覚えた。名前を覚えていたがどのようなことを書いていたかは記憶にない。平井さんのおかげでいつの間にか舞台監督をやらされたため、田川さんの下でいっしょにコレクタが制作に関わる演奏会に携わるようになる。インターリンクフェスティバル、北九州の響ホールの杮落としから翌年の音楽祭、草月ホールでの師匠沢井一恵のリサイタル、悠治さんのコンサートシリーズ、クセナキス近作展等々。そうこうしていると、スケジュール他の都合で田川さんに頼めないものはこちらに依頼が来るようになる。そういう時も田川さんに舞台で必要なものがあると色々なとこに話をつけてくれて都合してくれた。ファッションデザイナーのイベントで時間がかなりあったので田川さんと演奏者が卓を囲みに行ってしまいヘアメイクの時間になっても戻って来ない、今配牌をして積もっている最中ですとも言えずなんとかごまかしたこともあり、と。色々な肩書はあるがわたしが知っているのは舞台監督田川律、それだけ。平井さんが出張の時にコレクタの事務所で仲間内集まりお好み焼き会をやった時もあったか。
あとは七日づつ数えて七七日までゆっくりと自分の中でお別れする。