梅雨明け、ウマチー

仲宗根浩

選挙があった。こちらで選挙となると地縁、血縁の世界。選挙に尋常なく燃えるひともいる。投票はするがなるべく、関わりたくない。各選挙事務所には知っているひともいるので近寄らないよう、前を通るときも足早に、足早に歩いていたら、梅雨は雨を降らせることもなく十七日に明ける。気温も三十一度を超えるようになる。三十度と三十一度、差は一度だが窓から入る風が全然違う。陽差しは痛い。Tシャツの繊維の隙間から陽は肌を刺す。家では空調のない部屋にいることが多く、暑がりなので自然と裸族と化す。といっても最低限着るべきものは着ている。

晴れていても雨雲が急に近づいて来て、数分雨を降らして通り過ぎる。

翌日の十八日は旧暦五月十五日、五月ウマチー(グングァチウマチー)のため首里の宗家の仏壇を拝みに行く。二十年くらい前、拝みに行く仏壇が家の近所にあったころ以来だ。この日は門中(モンチュウ)と呼ばれる親族が集まる。昔見たのと同じように仏壇が配置されていた。こちらでは行き来する親戚の幅が広い。親戚と言われても長らく沖縄を離れていたため、関係がわからない場合が多く、後から教えてもらう。父方、母方の祖母の従妹、その実家、養子に来たひい爺さんの実家、そこから分かれたそれぞれの家々。

以前、原稿を書いていた音楽雑誌が送られて来る。CDを紹介したものやコンサートのレポート、フリーペーパーや地元の雑誌に書いたものは一カ所に積み上げておいたが、年末大掃除で全部処分した。原稿を書くにあたって取材に時間が取れなくなったこと、色々、音楽に関係するひとと話をしていると、あちこちに派閥、触れては行けない人間関係などが見えて来たので面倒くさくなって全部やめた。やめてからずいぶん経つのに、一誌だけが毎月送ってくれる。その中で紹介される音楽の内容は今ほとんどが興味なくなっているがブラジル移民百年の記事があった。母方の家はわたしが生まれる前に、ブラジルに移民として渡った。たまにブラジルから神奈川に働きに来ている従兄弟が沖縄まで遊びに来る。以前は方言とポルトガル語しか話せなかった。こちらもカタコトの方言を使って会話する。何度も行き来するうちに、会話もスムーズになっていく。日本語は難しい、と言っていた。

久しぶりに、よく行ったいた飲み屋に行く。顔を出していない間のよく顔を合わせていたひとの近況を教えてくれた。その中の米兵夫妻、旦那がテキサスに移動になるらしい。彼はarmyなのでテキサスへの移動はほとんどイラク行きとのこと。奥さんのほうは悲嘆にくれ、泣いてばかりいるといっていた。任務が終わるまで家族はテキサスで待ち続ける。慰霊の日の二十三日、子供は学校が休み。テレビでは特集番組、慰霊祭の中継、ニュースではその様子を流し続ける。沖縄では南に逃げるか北に逃げるかで生死の確率が全然違う。父親、母親とも北、山原(ヤンバル)に逃れた。それでも機銃掃射で歩く列、ひとりおきに弾丸に当たり倒れていったはなし、夜の艦砲射撃の光の様子などは子供の頃聞いた。今の戦争も昔の戦争が遠くないところにある。