いつ地中海をわたったのか気づかなかった
モロッコに着いてから海を見に行った
赤い空に緑の星が浮かんでいる
海を見ると別の海のことを思い出す
波が思考に通信を送りこんでくるのか
それでぼくらはカーボヴェルデの歌を聴きながら
ハワイ諸島の海辺のようすを語った
黄色い夕方が雨のように降って
灰色の海を記憶の狩り場にする
鷹匠を呼んできて小鳥たちに
この海は迂回してよと知らせなくてはならない
Aは力士のように大きなモロッコ男の外交官(詩人)
Zはリスボンで暮らすフランス語教師のブルガリア女(詩人)
出会って一時間にもならないのに
もうわれわれは詩をサッカー試合のように
熱烈に議論している
並んで磯に立ち、波を浴びそうになりながら
世界の背後にある詩を競馬のように予想している
言葉よりもイメージの破線を
直接波から借りられるなら
やがて三人で同時に呼びかけてみた
海よ、来い
波よ、来い
ここにはいない栄螺よ、のろのろとやって来い
ぼくらが声をそろえて「海!」というとき
その一語の背後に世界のさまざまな海がある
時空に隔てられた遠い海たちが
呼びかけられてたちまち集結する
緑色、ターコイズ、青色、群青色
それぞれの声がひらめや昆布や
プランクトンを率き連れてやってくる
水と水が記憶かお菓子のように
層をなして現われる
風の薔薇のように並んだ鰯をつまみながら
立ったままビールを飲んでいるのだ
いつでも駆け出せることを願いつつ
実際いつでも過去に戻ってゆけることを望んでいる
そんな心にとって過去と未来の区別はない
町(Rabat)に戻ると心が落ち着いた
ずんぐりした椰子の並木を歩いていると
ジャン・ジュネがずんぐりした坊主頭で
にっこり笑っている
「おれはその先のホテルに住んでいるんだよ
駅のそばの」
サインを下さいといいかかったが
死者にペンが持てるものだろうか
イメージでしかないのだ
肉体も存在もないし声もない
すぐ別れて看板を頼りに進んでゆく
アラビア語とフランス語ともうひとつ
知らない言葉の文字をときどき見かけている
意味も音もわからないのでそれは
ぼくには文字とはいえない
砂漠よりももっと遠い土地に住む
知らない民族の言葉らしかった
バス通りをわたると
旧市街地(Medina)に迷いこんだ
働いている遠い土地の民族の
背の高い女が頭よりもずっと高く手をあげて
その位置から見事にお茶を注いでくれた
サルト・アンヘルのような細い細い滝に
つかのまの虹が浮かぶ
野原のようにたくさんの葉が入っている
甘いミント茶を飲んで力をつけて歩いた
細い石畳の道がひんやりとつづき
あらゆる街路が二つに分岐してゆく
犬たちがいつのまにか集まってきて
何もいわずに後をついてくる
犬を集める檻をろばが牽いて行く
五百年前にもここを歩く他所者がいただろう
その誰かはあるいは中国語の
いずれかの方言を話したかもしれない
梵字が読めて
アラビア語のカリグラフィをよくしたかも
石造りの家はどこもしずかで
時間の水に沈んでいるみたいだ
五世紀前
「私」はまだいなかったが
「私」に連なる遺伝子はすでに誰かに乗っていた
何も覚えていないけれど
「私」の兆しはすでにあった
その先にある噴水の広場には
いまと変わらず立っていたことがあったかもしれない
私になる以前の私が曖昧な顔をして
そこは世界=歴史のメタフォリックな中心?
メタフォリックな中心に立つとき自分もまた
メタファーになる
何かを携えている
それを見ている自分はそこにいながら
遠心的に世界の縁をさまようことになる
ひとつの建物からウードの音が聞えてきたので
ついふらりと迷いこむ
すると意外にも友人たち(AとZ)が待っていて
ここで俳句を作れというのだ
反対する理由もない
青い町 青インクで夜に 町を描け
赤い村 赤土で顔を 鬼にせよ
白い都市 暦の白に 迷いこめ
黒い空 カラスの群れを 焚きつけろ
Aがにやりと笑う
それは俳句としてはどうかしら、とイッサがいう
「季語」はどこにある?
一茶ではないモロッコ人の彼の名は
アラビア語でイエス(キリスト)のことだが
俳句の知識はぼくよりもずっとたしかなのだ
ぼくは困って照れ笑いをするが
「照れ笑い」とは翻訳可能なのだろうかと
自信が持てない
俳句のためのイメージがなかなか訪れない
雨乞いでもしてみるか
音楽は進む
つい “Não sou nada…” (私は何でもない)と苦し紛れにつぶやくと
Zがにっこり笑って “Fernando Pessoa” といった
それで救われた
“Nunca serei nada…” (私はけっして何にもならない)
もう夕方だ
記憶が間歇的になってくる時間だが
ペソアのこの言葉が甦ってきた
Não posso querer ser nada. (私は何かになろうと欲することができない)
À parte isso, tenho em mim (そのことを除けば、私のうちには)
Todos os sonhos do mundo. (世界のすべての夢がある)
湖にみんなで行こうとハッサンがいう
ニッサンの車に乗ってしばらく走り
美しい夕方の光の中で
野鳥が集う湖畔を歩いた
そのときの充実はどこか田舎の
郵便局員以外には理解できないだろうな
空が赤く染まり緑の星が見えてくる
いつかはネクロポリス(死者の都)を訪れなくてはならないが
いまは歩きながら白夜の森を思い出している
まだしばらく歩行はつづく
自転車を押しながら歩いたあの道
湖での水切り遊び
凧揚げの思い出
夏の湖が夕方のように光っていた
魚が跳ねたと思ってふりむくと
亀が水面に落ちたらしかった
芭蕉の反復
別のかたちで
誰かがウードをつま弾き
それに答えるように琵琶の音もする
方丈に住んだ鴨長明が
出てきてくれたのだろうか
歌い交わすように
語り合うように
しばらくこの音色を響かせてくれ
この湖畔の光の中で