図書館詩集3(相模野は月見野)

管啓次郎

相模野は月見野
この平坦な土地を歩いていると
「図書館城下町」にやってきた
この城は誰の城
迷いに迷っていつまでも
そこにたどりつかないのはいやだな
だが城とは支配者の居所
何か矛盾してはいないか
だって図書館は反支配の拠点なんだ
並べられた本にはどうも
そんな叛乱的性質がある
一律の支配をとことん嫌う
外れてゆく
おとなしい顔をして
逸脱と暴動を作り出す
図書館に主はいない
書物の城は壁を知らず
領土なく年貢なく
どんどん虹のようにひろがっていく
波紋のように内側からきみを拡げる
ともあれその場所に着くまえに
まずは腹ごしらえといくか
剣滝揚鶏が
世界のどこでもおなじ味の
油くさい鶏を供してくれる
塩味があまりに濃いが
それなりにうまい
ペプシでのどを洗いつつ食べる
するとケンタッキーの青い草原が
馬たちの思い出とともにひろがって
見る見る現在から取り残される
サンダースおじさんの第一号店に
ぼくは行かなかったが
葉子さんは橇作りのダグが連れていった
美しい馬たちがみずからを追求して
野を自由にかけたり
犬のように横になったりもしていた
あんな草原なら馬たちはしあわせだろう
相馬の勇壮な馬のようにも
下北のカンダチメのようにもしあわせだ
神の犬たちよ
さあまた歩いていくか
広い無人の野のむこうに
書物の城がかすんでいる
蜃気楼にむかうbliss
歩行のbreathless
でもなかなか直進ができない
透明な森にぶつかったかのように
森が行く手を阻むかのように
私たち獣たちはまっすぐには歩けない
冬の直前
残り少ない果実を拾うため
目を光の皿にして
やがて小高い丘の上に立てば
観天望気
すでに読書がはじまっている
空は無限で無方向
書物は現実的に無限
言語の雲の流れをよく見て
行方を決めなさい
ところで書物のタイトルには著作権がないのだ
だからぼくがぼくの本を
『城』と呼ぼうが
『城から城』と呼ぼうが
『戦争と平和』と呼ぼうが
『マングローヴ渡り』と呼ぼうが
誰にも断る必要はないわけだ
けれども先日
A Field Guide to Getting Lost
という子供むけの本が出版されて
さすがにレベッカも怒っていたようだ
ぼくは特に気にしない
的確な真実の含まれたタイトルは
誰にとっても使いやすい
「失われた時」や手に負えない「白鯨」
を求める気持ちは誰にとっても真実だし
「シンクロニシティ」という本なんて
いったい何冊あることか
「罪と罰」からは「罪と恩寵」とか
「罪と重力」とか「罪と日記」とか
「罪と逃走」とか「罪と闘争」とか
無限にヴァリエーションが作れる
書名より大切なのはその本自体の肉や血だろう
肉を読み血を飲むべし
みずからその変異型となるべし
思えば「換骨奪胎」ってすごい言葉だな
フランケンシュタイン博士どころではない
自由自在の生命工学か
そして言語ならそれができる
ぼくの体も少しはとりかえばや
いやいっそう必要なのは脳だけど
これは交換不可能
中枢を分散させることもできないので
自分を超えるためには外部記憶に
つながるしかない
関係にみずからを接続するしかない
それを果たすのが本、本、ごほん
(このところ咳が止まらないのは
何か偽の記憶を求めているせいかしら
けれども偽の記憶にも
良い記憶がたくさんあって
良い記憶が生きることを支えてくれるなら
それもいいんじゃない?)
このあまりにも限定された自分が
行方を見失って
広大な草原にひとり立ちつくすとき
道標/からすが落とす/柿の種
それをたどってやっと図書館へ着いたのだ
ぼくは公共の場が好きだ
本が作る世界ほど
公共性が高いところはない
それは言語がつねに
すでに全面的に
公共化されているからだが
言語使用の現場そのものは
それとはちがうかもしれない
だいたいこうして文字を記すことには
どこか不自然で孤独なところがある
リチャード・ブローティガンが書いていた
「見知らぬ人がたくさんいる場所でひとり
ぼくは天上の合唱隊の
まん中にいるみたいに歌う

—ぼくの舌は蜜の雲—

ときどき自分を気味がわるいなと思う」
(『ブローティガン東京日記』福間健二訳、平凡社、124)
No worries, Richard!
歌うことを恐れることはない
歌うことを恐れてはならない
歌を禁じるものたちに反撃せよ
私の歌は沈黙を造形し
無音を素材として蜜の雲を立ち上らせる
自分を気味がわるいと思うのは
他人の視線に同一化しているからにすぎない
水の中を泳ぐwaterbabyのように
きみがすなおに自分でいるかぎり
その見慣れない見知ったものの
Unheimlichな気味わるさは生じない
ほら二羽のからすが飛んできて
いま窓ガラスの外にとまった
かれらはきみの過去と未来だ
かれらはこの冬枯れた町だって
極彩色に翻訳して体験している
いつも光の雨が降っている
からすは高いところから
熟れすぎた柿や潰れた猫を
ついばむ機会をうかがっている
それも生きるための行動
生命の模索
ぼくは言語のはかない塔に上りつつ
ここに隠された鳩の卵につまづきそうだ
この平野が海だったころから
つぶやいている霜の声が聞こえる
ふうふうと立ち上がるささやきは
どんな文字の絶叫を隠すのか
見てごらん
相模野は月見野(大和市つきみ野)
目黒川の両岸に二万年の居住史
そんなことも忘れて生きているのが現代人
思い出せ、石斧を
思い出せ、石刃を
思い出せ、隆線文土器を
人がいたんだ、ここには
つきみのに星の輝く
シリウスが吠えている
かれらがきみと無縁の人々だと
考えてはいけない
歴史的な人口動態から考えて
かれらもまたきみの蓋然的ご先祖
いまここを歩くなら
またここから旅をはじめればいい
記憶を残せばいい
そもそもひとりの人間の深みを
知ることは大変にむずかしいのだ
Blue bayouに沈められたのは
彼の幼児期の記憶だった
水面の鏡に彼は
母に抱かれた自分の姿を見るのではなく
La lloronaとなった母が泣きながら
自分を溺れさせようとするのを
水面下から見上げていた
Waterbaby
覚えてもいない祖国への強制送還の代わりに
彼はするりと水に放たれて
世界のさまよいを生きることになった
魚のように
魚として
「よそものだ。Outsiders.
水の旅人だ。Water-wayfarers.
ただひとつの元素でできている。Things of one element.
まるで水のようなのに、 Aqueous,
それぞれが自立して。Each by itself.」
(D.H. Lawrence, “Fish.”)
水の中のそんな魚たちのように
本もそれぞれが自立しながら
すべて文字の水中にある
水=言語の連続体から
みずからを切り取って生きてゆく
この湖にぼくもみずからを沈め
言語体としての自分をそこからつかみとって
生存を試みることにしよう
言語の嵐を呼びながら
おーい、モンスーン!
おーい、モンスーン!
早くおいでよ
洪水せよ
慈雨!
慈雨!
氾濫は叛乱
文学とは言語的な謀反でなければなんだろう
いまある種子を手作りの
紙に漉きこんで
二百年先の人々に届けよう
かれらの時間が現在の植物でみたされるように
おーい、モンスーン!
おーい、モンスーン!
Soon the Moon appears
Out of nowhere
Over the field
その光に書物の背表紙が
いっせいに輝きだす

大和市文化拠点シリウス、2022年12月17日、薄曇り