製本かい摘みましては(179)

四釜裕子

縦長の本が机上に二つ、本棚の定位置が決まらずにこのまま年を越しそうだ。『百貨店の歴史 年表で見る夢と憧れの建築』(2022  PRINT&BUILD)と、金澤一志さんの詩集『雨の日のあたたかい音楽』(2022  七月堂)。まだしばらく眺めていたいのと、縦に長い判型によるところも大きい。

『百貨店の歴史 年表で見る夢と憧れの建築』は、高島屋資料館TOKYOの「百貨店展」で展示されていた巨大年表を、展示監修者の浅子佳英さんが、ご自身の事務所・PRINT&BUILDから〈大判のポスター型の書籍〉として刊行したものだ。「年表」といっても写真や図版、コメントが多く、会場ではどなたも壁面にはりつくようにして眺めていたし、私もひととおり追ったけれどもなにしろ情報満載なので、「図録はないのでしょうか」と尋ねたがなくてがっかりしたが、12月になって〈展覧会開催後、様々な人から売って欲しいと問い合わせの多かったあの巨大な年表がとうとう部数限定にて発売されます〉とのしらせを見つけ、そうか、「図録はないのですか」なんて甘い。「あれを売って欲しい」と言うのを思いつけなかったことを悔しく思いつつ、早速注文したのだった。

縮小した年表が3枚に分かれ、それぞれを蛇腹にたたんで重ねて、帙というか、たとう紙というか、そういう形状の厚紙にくるまれて届いた。PRINT&BUILDのサイトから仕様を引用するとこうなる。〈全体の横幅は2.7mに。約90センチ✕60センチの大判のポスターを3枚、蛇腹式に折込み、スリーブで閉じた〉。そのスリーブに入れた状態で、大きさはおよそ15センチ×29.5センチ。広げると、コンパクトになったとはいえ十分に大きい。会場では天地が背丈以上あったけれど、もともとこれくらいのサイズで作ったものを拡大して展示したのか。そんな単純なことではないように思うけれども、手元で全体を広げて見ると、年表そのものを13階建ての百貨店に見立ててデザインしてあったことなど初めて気づいた。

年表では大手13の百貨店のほか、全国各地の百貨店や商業施設にも触れている。故郷・山形については何か出てるかなと改めて見ると、2020年に閉店した大沼デパートについては、開業や閉店の時期、建物自体も特別目立つものではないのか記載はなかったが、1967年のところに「山形ハワイドリームランド」があった。県内ほぼ中央に位置する寒河江市の市役所庁舎(1967)や日東食品山形工場(1964)も手がけた、若き日の黒川紀章(1934-2007)が設計した(1966)からだろう。黒川さんの公式サイトによると、これは当時提唱していたメタボリズム建築の中の循環のプランで、〈商業施設にとって経営上重要な回遊性を強調しており、循環の原理を示している。また、日本文化の巡礼の伝統も受け継いでいる〉〈建築の内側に自然を取り込む方法は(当時自然の胎内化と呼んでいた)その後の作品(例えば東京の六本木プリンスホテル等)にしばしば用いている〉とコンセプトが記されている。黒川さんがなぜその時代に寒河江市と縁があったのかは、『黒川紀章ノート 思索と創造の軌跡』(1994 同文書院)にこんなふうに書いてある。

〈最初の仕事は、ある日突然、やってきた。その日のことは忘れることはできない。それは山形県の寒河江市に本社工場をもつ日東食品の小さな工場の設計であった。このまったく知らない施主からの依頼は、実は朝日新聞に掲載された私の紹介文がきっかけになったものだった。そのインタビューをしたのは、現在作家で評論家である森本哲郎である〉

〈日東食品の矢住清亮社長は、たいへん粋な方で、まだ大学院の学生であった私は、矢住社長に料亭に連れて行かれたことを覚えている。確か、新橋だったと思う。そこで「黒川さん、建築家になるためには、小唄をやるといいですよ」という言葉を、怪訝な気持ちで聴いた覚えがある〉

〈そうこうするうちに、あるとき寒河江市役所の助役から、深夜だったと思うが、電話がかかってきて、「今度、寒河江市は市役所を建て替えることになったが、その設計を依頼した場合に黒川さんのほうでは引き受けてもらえるか」ということであった。
飛び上がるように驚き、持っていた受話器が震えていたのを覚えている〉

〈後から調べてみると、当時議会は、保守派と革新派に分かれて、きびしい対立が続き、両方にそれぞれ推薦された建築家のどちらを選んでもしこりが残るということで、当時寒河江市の一角に日東食品の工場を設計していた私の名前が突然浮上して、依頼につながったと聞いた〉

〈寒河江市役所は、初めての公共建築の設計であり、(中略)それまで温めていたさまざまな構想を、この寒河江の市役所の設計のために全力を挙げて注ぎ込んだ。(中略)すぐに私は、その真ん中の吹き抜けに岡本太郎の大きな光る彫刻を依頼した。
ほとんど予算のない仕事であったが、喜んで引き受けてくださった岡本太郎に対して、貧乏であった私は感謝の意味を込めて、一日岡本邸のどぶ掃除を手伝った〉

3つの黒川建築のうち、現存するのは寒河江市役所庁舎のみ。私自身がなじみがあるのもここだけだ。子どものころ、市役所の向かいのスーパーヤマザワにあったサンリオショップによく行った。いちご新聞が楽しみだった。その駐車場が市役所の前だった。庁舎のシルエットや吹き抜けは好きだったが、コンクリートの質感や色が怖かった。岡本太郎の光の彫刻《生誕》はあまり目立っていなかった。なんなら一時期、電気を入れていなかったのではないか(未確認)。今見ると、建物自体が小さくて愛らしい。市役所という機能から解放されたら別の輝きが増しそうだ。2017年に登録有形文化財に指定され、岡本太郎のオブジェと併せて遠方から見にくる人が増えたと聞く。なにもかも、黒川青年が岡本邸のどぶ掃除をしたおかげでもある。

さてもう一冊の縦長本、金澤一志さんの『雨の日のあたたかい音楽』は、およそ10センチ×19センチというサイズ。表紙や本文紙がほどほど張りがあるので、表紙に折り線をつけまいとすると読むのにノドをのぞきこむあんばいになる。冬場の乾燥した指で持つと、ときおり手のひらから冊子ごとスルッと抜けて飛んでいく。(逃がさんぞ)とか思って思い切ってページを開く。ノドのあきが結構狭いし、裁ち落としの写真の全部も見たいのだ。おかげで表紙にしっかり折りじわがついてしまったが、意外にも、この冊子を傷つけた感じがして悲しくなったりしなかった。大事すぎる装丁というのが、読むのにすっかり重荷になっているこちらの事情もある。

『雨の日のあたたかい音楽』にはいろんなスタイルの作品が並ぶ。すべてが歌詞のようでもあるし、またその見せ方が、別々の楽器や演奏法に向けた楽譜のようでもある。中に、一ページに一行だけ配すような作品があって、船木仁さんの詩集『風景を撫でている男の後姿がみえる』(昭和50  装幀・構成・出版:高橋昭八郎) を思い出した。俳句なのか一行詩なのか判然としない、というか、どちらとも言われたくなさそうな作品が68編。あとがきには〈題名のない一行詩といったものを意図したつもり〉とあるが、したがって目次というのは成り立たないはずだが一応目次らしきページがあり(実際には「目次」ではなく「■」と印字されているけれど)、確か、すべての作品が一行ずつでつらつら並んで目次然としていたという、奇妙でかっこいい詩集であった。『雨の日のあたたかい音楽』も、詩なのか歌詞なのか判然としない、というか、どちらとも言われたくなさそうな14編が並ぶ。

『風景を撫でている男の後姿がみえる』を思い出したのは特徴的な縦長の判型にもよる。メモを探したら、みつかった。だいたい12センチ×23センチ。となると、『雨の日のあたたかい音楽』と『風景を撫でている男の後姿がみえる』の判型の比率はほぼ同じと言っていい。ちなみに『黒川紀章ノート 思索と創造の軌跡』は、12.8センチ×18.8センチの四六判で厚さが4.5センチある。つい「お弁当箱みたいな」と言いそうになったが、合っているだろうか。そもそもこんな比率の弁当箱の実感がないくせによく言うよという感じもする。