図書館詩集5(海老をしきつめたような湖面が )

管啓次郎

海老をしきつめたような湖面がひろがる
海老をしきつめたような道がつづく
巨大な一枚岩の川床に
ごく浅く水が流れて
その水の全体にぴちぴちと跳ねる
川海老が泳いでいる
恐ろしいほどの大漁が約束されている
だが同時に「海老」という表記に対する疑問が生まれる
ここに海はないよ
それともかつてはあったのか
いまは平原
人間たちの身勝手な居住の上に
古代の風が吹いている
先週はまだ寒かった
早春の奇妙に音のない朝
冷たい雨の名残に土がくろぐろと濡れて
舗装道路や線路の敷石も濡れて
目をそむけたくなるほどだった
しかし逸らした視線をどこにむけろというのか
たとえ鎖につながれた犬や
窓際のガラス越しに見える無言の猫でも
いつもそんな存在を求めている人がいる気持ちは
よくわかる
まなざしを必死で求めているのだ
人間からは得られない無償の関心を
人間が与えてくれない無私のなぐさめを
哺乳動物だけがもたらしてくれる
あの目に浮かぶ
はばたきのような感情を
犬猫うさぎモルモットねずみジャービル
こうした動物をかわいがる人間には
どこか心にあやういところがある?
あたりまえさ
人間世界から逃れるために
かれら小動物に救いを求めているのだ
ぼくにはよくわかる心の傾向だ
人間世界が恐ろしいのは企業に支配されているからだ
企業といっても会社といってもいいが
やつらには勝てない
利益追求を第一とし
その目的のためには何をやってもいいと考えている
壊すとか殺すとか何とも思わない
そんなやつらの考えにいつも怯えている
やつらは「法人」
ひとりひとりの生身の人間が死んでも
生き続ける
利益をスーツとして着込むかぎり
不死身だ
戦っても勝ち目はない
感情も生命もないのだから
こっちには絶対にできないような
卑怯なまねを平気でする
利益のためにやつらがやることには
諸段階の破壊があらかじめ含まれている
ワグナーを大音量で鳴らしながら
民間人を射殺する
犯罪そのものを免罪符として
喜々として太陽の下を闊歩する
国家と国家の敵対を作り出すことが
そのまま利潤につながるその仕組みの末端で
獣の道すら見失った人間たちが
引き金をひき計算機を叩いている
その姿は異様なまでに
残忍だ
思い浮かべるだけで心が
べったりと打ちのめされる
法人たちの恒常化・一般化した戦争か
二十世紀からの出口を
求めてきたのに見つからないとは
問題はわかっている
この人の世は十分に
生命に住んでいないのだ
生命の場所としての土地に住んでいないのだ
その事実に怯えながら
この状況からの出口を探している
踏んではいけない海老たちを避けて
このあてどない道を歩きながら
そうだった、今年はイェイツが
ノーベル文学賞を受賞してから百年だっけ
この世から剝落することは
誰にとっても大きな願いだった
いわんや人新世においてをや
彼の願望を
百年後に共有することになるなんて

湖の小島イニスフリー (W.B.イェイツ)
さあ、そろそろ行くよ、行くのはイニスフリーだ、
そこに小さな小屋を建てるのだ、粘土と編み枝で。
豆畑を九畝作り、蜜蜂を飼い、
ぶんぶん唸る音にみたされた空き地で、ひとり暮らす。

いずれ平穏に暮らせるだろう、平穏はゆっくり滴るようにやってくる、
朝霧のヴェールから、蟋蟀が鳴く草むらに滴るのだ。
そこでは深夜はきらめき、正午は紫に発光する、
夕暮れ時は胸赤ヒワが騒ぐ音にみたされて。

さあ、そろそろ行くよ、なぜならいつも、夜も昼も
湖水が岸辺でちゃぷちゃぷいうのが聞こえているからだ。
土の道に立ちつくしていても、灰色の舗道の上でも、
私はその音を深い心の芯で聞いている。

ほら、また耳をすましてごらん
あのちゃぷちゃぷいう水音に誘われて
逃避だ、亡命だ
革命だ、隠棲だ
生活だ、回心だ
この世に加担しないことが最大の貢献だ
蜂飼という非常に古代的な営みに
みずから救われることを誓おうか
ぼくがいいたいのは、われわれは
あるところから先はこの世のルールに
したがわなくていいということだ
それどころかはっきり反逆すればいい
与えられた身分証を捨てて
遠いところへと出てゆくのだ
いまこの河岸段丘に立ち
三川の岸辺を見晴らしながら
きみは逃亡の戦略を練る
傭兵たちを豆畑に迷わせること
すべての銃口にひまわりの種を詰めること
だがこれはファンタジーにすぎない
残忍で陰惨な現実が断崖のようにつづいている
未完の学位が地面に捨てられて
学びたかったかれらの明日が断ち切られて
理不尽な命令にしたがわされて
命を奪われて
よみがえれ学生たち!
「学生」という名称を真剣に生かすなら
あらゆる戦争に反対する以外の道はない
学ぶことが生なので
学びつつ生きることを望んでいた
いちど学生になったら生涯が学ぶ生だ
学生であることがつねに第一義なので
法人に心を委ねることもない
そんなことは絶対にしない
誰の命令も聞かない
戦うくらいなら逃亡をつづける
働くくらいなら放浪を選ぶ
ニンゲン化されるくらいなら島に行き
海老をとって暮らすだろう
海老をしきつめたような原っぱがひろがる
海老をしきつめたような図書館がひろがる
足を切らないように注意して歩けよ
マカテア(化石化した珊瑚の環礁)に守られた島に
何度でも上陸するのだ
ガラスの上を歩くようだ
ところどころに深い穴があり
いつ落ちてもわからない
ここを歩みつつ知識を求めるなら
人の音声言語だけではうまく進めない
音声のパターンを習得する動物は
ヒト以外の哺乳類ではくじらやいるか、こうもり
鳥ではおうむ、蜂鳥、鳴禽類(ひばり、すずめ、つばめ……)
かれらが互いに情報を伝えあうとき
地球はどれほどよりよく理解されることか
海の老人よ
私を操縦することはできないよ
人間が考えたことをたどりつつ
人間が思いもしない地表のできごとを
想像するんだ
たくさんの並んだ線路が錆色の川のように流れ
平野はほぼ忘れられた歴史のようにつづく
きみは誰だ、名乗れ
海老が名乗り
烏賊は沈黙し
たこぶねが真っ青な空を
しずかに進んでゆく
ぼくはせめて中世を探すつもりでここに来たんだが
ここも商都の廃墟
人々はおとなしく物品を手にして
セルフレジに向かう
なんという世の中
自己登記せよ
支払うために自分を投棄せよ
代価をもって物品を持ち帰れ
驚くべきことに
すべての産物は加工品だ
プラスティックな食品を食べているうちに
きみの脳も体細胞もどんどん石油に置き換わるだろう
だが石油が生物の遺体由来なら
それもただ時間を極端な長さで体験するための
一方法なのかもしれないな
「えび」と「ゆび」は元来おなじ語で
節があり曲がったものをそう呼んだという
このあたりの地形は節くれだった河岸段丘で
むかしの人々はこの土地に横たわる
大きな海老を見ていたのかもしれない
「〜のようだ」にすべての秘密があるのだ
隠喩ではなく直喩に大きな衝撃がある
あまりに遠くかけ離れて
とても連想が及ばないものでも
「たとえていうなら」という了解のもとに
連結できるからだ
それ以外にこの世をじゅうぶん体験する途はない
いま踏んだその土に永遠あり
きみの足跡に生命の響きあり
むせるほどの生命の洪水に立ちつくし
もう一歩も進めない
それが正しい道なのだ、学びの道の
たどりついた図書館は湖の中
私たちそれぞれ
ひとりで逃げてゆく小島

海老名市立中央図書館、2023年2月26日、快晴