ベルヴィル日記(16)

福島亮

 2月はカーニヴァルの時季だ。マルティニックでは「赤い悪魔(ディアブル・ルージュ)」と呼ばれる真っ赤な角を生やした怪物の仮面を被り、練り歩く。真っ赤な衣装には小さな鏡が鏤められているのだが、それが何か魔術的な意味を持っているのか、それとも装飾のために過ぎないのかはよくわからない。

 私の家の真下にはベルヴィル通りという大通りがあるのだが、先日部屋でパソコンに向かっていると、何やら賑やかな音楽が聞こえてきた。デモ行進で音楽をかけるのはよくあることだから、きっとそれだろうと思って気にせずにいたのだが、いつまでたっても音楽が終わらない。不思議に思って外に出ると、通りに人が溢れかえり、よく見ると目の覚めるような色のドレスを着た人たちが行列をなしている。カーニヴァルだ。どうやらラテンアメリカ出身の人々がそれぞれの国の衣装をまとい、それぞれの国の音楽に合わせて列をなし、踊っているようである。踊り手たちの先頭をスピーカーを鳴らしながら進む自動車には、「ボリビア」というように、国名が書かれている。この自動車に先導される形で、民族衣装に身を包んだ女性たちや、着ぐるみを身につけた人が踊っている。1週間ほど前になるが、ケブランリー美術館で「サンゴールと芸術」と題された企画展示があったので出かけた。ついでに、と思って常設展示も一通り見ることにしたのだが、そのなかに南米のカーニヴァルの衣装が展示されていた——というのを、実際のカーニヴァルの様子を見ながら思い出した。それにしても、カーニヴァルの音楽は、太鼓や笛が賑やかなのに、どこか物悲しい感じが漂っているのはなぜだろう。

 この街での滞在も残すところあと2週間ほどである。寂しいか、と訊かれたことがあるのだが、じつはあまり寂しくはない。そう遠くない時期に(長期とは行かぬまでも)この街に戻ってくるだろうと、楽観的に思っているからである。ただ、それはやはり、あくまで滞在者としてのアイデンティティが抜けきらないからでもあって、どうやら4年半ほどフランスで生活しても、住人になれたわけではなく、だらだらと滞在を続けている、という意識の方が強いのだと思う。ケニヤ生まれの友人と話していて、そのことを再認識した。彼はパリで修士課程を修了したのち、しばらくベルギーで研修を受けていたのだが、今はフランスの金融関係の会社で働いていて、密かに推理小説をフランス語で書いているという。まだ最初の数章しか書けていないというが、自己表現を大人になってから学び覚えた言語でするとはどういうことなのか、と思った。いや、そのような例はいくらでもあるのだろう。また、彼によると、ケニヤで子どもの頃使っていた言語は、話し言葉であって、執筆には使えないのだという。だから、フランス語で書くことにはあまり障壁はないのかもしれない。

 はっきりしているのは、私には同じような関係をフランス語と結ぶ覚悟がまだない、ということである。というよりも、誰が読むかわからないテクストをフランス語で密かに、時間をかけて綴ろうという気持ちが生まれないのである。内面との孤独な対話は、いつも日本語でおこなっていたような気がする。それを自分ではっきりと知ることができたことがこの4年半の成果である、と言ったら皮肉だろうか。

 自分がかりそめの滞在者にすぎなかったと知った後で、どうこの街と付き合っていこうかと今考えている。だが、たとえ日本に帰ったとして、それは滞在者であることを止めるという意味なのだろうか。自分は永遠の滞在者である、などと言う覚悟はないのだが、生えたと思った根っこが錯覚に過ぎなかったという瞬間はきっとこれからもあるだろう。