徳之島

管啓次郎

野原を歩いてゆくと黒牛の群れがいた
モーと声をかけると一斉にこちらを振り向く
それ以上の興味はなさそう
サックスをもっていればいずれかの音を吹いたとき
こちらに寄ってくる子もいるかもしれない
動物を子と呼ぶのはたしかに変だが
それも疑似家族(年齢的にはたしかに子供)
歌ってみることにした
「おーい、今日はいい天気
今日を呼ぶにはどうするの
今こそ全面的に今日なのに
今日の中にいて今日を呼ぶなんて
どうするの? どうするの?」
すると一頭が近づいてきて
すぐそこまでやってきてじっと
こちらを見ているので
その子をペドロ・パラモと呼ぶことにした
ペドロは存在しない、あるいはただ
幽霊として存在する死者の名前
そもそも誰かの想像の中にしか
登記されなかった名前
歩き出すとペドロ・パラモがついてきた
村の広場を横切るが
誰もいない
幽霊もいないし猫もいない
そのまま浜に出てそこはみごとな砂浜なので
はだしになって歩いてみた
黒牛もよろこんでそうしている
みかん箱のような木の箱ふたつに
一枚板をわたして魚を並べている少女がいる
売ってるのこれ
売ってるのよ
買おうかな
買いなさいよ
沖縄ならイラブチャーと呼ばれる
青に黄色や赤が入った美しい魚をもらうよというと
少女がその場でさばいて
刺身にしてくれた
酢味噌で食べなさい
まだ小学生だろうが
ずいぶん手慣れている
銭湯の洗い場で使うような
小さな木の腰掛けにすわり(これが客用)
その場で刺身を食べながら
ぼんやり海を見ている
これタダで飲みなさいよ
と少女がいってオリオンビールをくれた
歓待に乾杯
ペドロ・パラモがつまらなそうに
足を波打際につけたまま
沖合を眺めている
怖くなるくらい美しい海だ
そういえば闘牛があるんじゃないの
と少女に声をかけると
ペドロ・パラモがふりむいて
そんなのはいやだ
といった
牛が言葉をしゃべったわけでもないのに
それが痛いほどわかるので
ぼくは黙ってしまった
することがない
くじらを見たい
というと少女がそれならあっちといって
蘇鉄のトンネルをくぐっていくよう
教えてくれた
ではそうします
両側からおおいかぶさるように
生えている蘇鉄並木を抜けてゆく
ペドロ・パラモがぼくも行くよと
ついてくるのがわかる
そのまま歩いてゆくと岩場に出て
そこから海を見下ろしている
視界が完全にひらけた
どこかにくじらはいないかな
風が気持ちいい
海岸に林がありそこでは
小さな赤い花がたくさん泡のように湧いて
みるみるふくらむと風に飛ばされて
金魚のように泳ぎ出す
こんな現象は初めて見たな
それからしばらく立っているのだが
くじらはなかなか現れない
もうあきらめようという気持ちと
ここであきらめてはいけないという気持ちが
真剣にせめぎあっているのが苦しい
立ったままずっと海を見ているのだが
なんだか眠りと区別がつかなくなっている
目をちゃんと開いているのに
呆然としている
するとペドロ・パラモが鼻面で
ぼくの脇腹をつつくのだ
正気を取り戻せとでもいうのか
見てごらんというのか
それでまた海面をよく見ると
すぐそこで水の柱が立ち上がった
息吹だ、くじらの息吹き
潮吹きとも呼ばれる行動だ
すると突然あっちでもこっちでも
潮の水柱が立って
そのすべてがくじらなのだ
群れている
だが個々に独立的だ
すばらしい力強さ
ぼくはすっかり感心して
潮吹きの数をかぞえようとするのだが
うまくいかない
ペドロ・パラモも近眼だと思うが
ぼくの感動がわかるのか
しだいに興奮が高まっているようだ
つきあいのいい子だ
やがて前足で地面を掻き
いまにも立ち上がりそうな行動を見せる
ほら、馬ならすぐに想像がつくような
襲いかかるというのではないが
よろこびにはちきれそうな
子犬のような行動だ
モーと鳴いて
鳴けば鳴くほど
前足で地面を掻けば掻くほど
ペドロ・パラモがどんどん巨大化するので
びっくりする
それでこっちにもよろこびが伝わってきて
まるで踊り出したい気分になる
黒牛はこんどは前足で
どんどんと地面を叩く
島そのものが太鼓だね
ぼくもおーいおーいと声をあげ
その場でぴょんぴょんと跳んでみせる
すると、ああ、ごらん
くじらが跳躍し
空中でくるりと舞ってから
ざっぷんと海面に落ちてゆくのだ
その水しぶきが飛びかかってくる
うれしいくじらだ
牛と人を同時によろこばせてくれる
ぼくはペドロ・パラモにうながされ
牛の背にまたがってわーわーと
よろこびの声をあげる
巨大になった黒牛は
肩までの高さが3メートルはある
でもちっとも恐くない
むしろ楽しい、頼もしい
海に踊るくじらたち
陸には牛と人
見上げると空には
水平線から水平線まで
大きな虹がかかっている